2008年5月31日土曜日

第13話:連絡

あれから1ヶ月程、経っている。

俺は店を辞めて、別の店で働きだした。

今は霧子のマンションの近くのバーで働いている。

週末は霧子のマンションに泊まっていた。

俺達の関係は、最初の時と比べ親密な関係に落ち着いている。

最初は霧子にも迷いがあったのだが、今となっては全く迷いもなくなっている。


「亮、コーヒーにする?」

「あぁ」

亮はテレビの前で雑誌を読んでいた。

霧子はキッチンで食器棚に入れてあったクッキーを取り出した。

その時、『トゥルルルル、トゥルルルル、トゥルルルル』、突然、部屋の電話が鳴り出した。

霧子は手を拭いて慌てて電話に出た。

「はい、奥田です」

その後、沈黙が続き霧子の表情が変わった。

「どうしたんだ?」

霧子の様子がおかしいので亮は気になった。

「ちょっと待ってくれる」霧子は電話の相手に言った。

霧子は受話器を手で塞ぎ、困った様子で亮の方を向いた。

「あの人から電話が掛かってきたの」

「あの人って誰なんだ?」

「前の彼氏」

「向井さんなのか?」

内心、亮は向井に対して呆れていた。

(何で、前の女の所に電話するんだよ!)

霧子は受話器を塞いでいる手を離し、耳元へ受話器を持って行った。

「もう私達の関係は終わったのよ」

霧子の一言で、受話器の向こうから大きな声が聞こえた。

少しの間、霧子は向井の話を聞いていたが、

「だって、あなた他の女の人と関係があったのよ。それを私が理解しろって言うの?」と言った。

そして再び受話器の向こうから大きな声が聞こえだした。

亮は雑誌をテーブルに置いて電話の傍に近寄り、

「もう、やめとけ」と言って電話機のボタンを押して電話を切った。

「ごめん・・・」

霧子は受話器を電話機に置いた。

「いいんだ」

「突然、電話なんか掛かってきたけど、今迄、1回もなかったのに・・・」

「また電話があったら、黙って切ればいいさ」

そう言って亮は霧子の額に軽くキスをした。

(向井は霧子の家の電話の着信拒否設定が解除されたのに気付いたのか・・・)


日曜日の夜、亮は自分の家に帰ろうとして車の乗った。

「また電話するよ」

霧子は車の横で静かに頷いた。

だが、その数時間後、再び霧子の所に向井からの電話が入った。

『トゥルルルル! トゥルルルル!』

呼び出し音が20回繰り返されているが、一向に呼び出し音が切れる様子がない。

霧子は気味が悪くなって電話に出てしまった。

「俺だ! 向井だ!」

「分かってる。ごめん、もう掛けてこないで。もう終わったんだよ」

「霧子、俺は騙されたんだ!」

「誰に騙されるの? 私があなたに騙されたんでしょ」

「違う! 聞いてくれ!」

霧子は向井の話が終わる前に電話を切った。

次の日の夜、霧子は亮に電話が入った事を伝えた。

「昨日、亮が帰ってから、また向井から電話が入ったの」

「それで向井は何か言ってきたか?」

「うぅん、騙されたとか言ってたけど、私が電話を切ったの」

「それで、いいんだよ。あれだけ霧子は苦しめられたんだ。今更、何を言っても聞いたら駄目だ」

霧子の中では向井に対する気持ちは既にない。

どちらかと言えば、気味が悪いと云う感情の方が大きくなっていた。

「亮、私、あの人が少し恐い」

「どうしたんだ?」

「焦っている感じもあるけど、とにかく追い込まれてる様子があるの」

「マスターの話では仕事も退職してると聞いたからね。

だからと言って霧子が同情して関わったら駄目だ」

「うん、分かってる」

普段、この時間帯は2人で楽しく会話している時だった。

それが向井の電話により、2人の気持ちは少し沈んでいる。

「明日、仕事終わったら、霧子のマンションに行くよ」

「うん、お願いする。亮が傍に居てくれた方が私も安心できる」

霧子が電話を切ると、突然、電話機の呼び出し音が鳴り出した。

液晶ディスプレイを確認すると、向井の名前が表示されていた。

(まただ・・・、何で、そんな執拗になってるの?)

呼び出し音は永遠と鳴り続け、部屋の中で1人で居る霧子には苦痛に感じられた。

そして受話器を上げた。

「はい・・・」

「霧子! 聞いてくれ! 俺もお前も誰かに騙されているんだ!」

「誰に騙されるの?」

「今、お前に親しくしようとする奴はいないか?」

「ごめん。もう私にも好きな人が居るの。だから電話は掛けてこないで」

そう言って霧子は受話器を電話機の上に戻そうとした。

「霧子! そいつは誰なんだ! その好きな男って誰なんだ!!」

そんな向井の声が受話器から聞こえていたが、霧子は電話を切った。


次の日、約束通り、亮は仕事を終えて霧子のマンションを訪れた。

「昨日、またあの人から電話が掛かってきたの。俺達は騙されているって・・・、何なの・・・」

「昨日も掛かってきたのか!」

内心、亮は向井のする事に腹を立てていた。

夜の0時が過ぎ、2人がベッドで寝ている時、電話が鳴った。

「霧子、お前はいい。俺が出るよ」

亮は上半身を起こし枕元にある子機を取った。

「はい」

相手が霧子でないと分かると電話は切れた。

「何なんだ!」

亮は枕元に子機を置いてベッドから降りた。

「恐らく今日は掛かってこないな。霧子、俺はそろそろ家に帰るよ」

「うん。ありがとう」

「あぁ、いいんだよ」

亮は霧子を傍に寄せて額に軽くキスをした。


俺は車に運転しながら、この数ヶ月の事を振り返っていた。

汚い方法で向井から霧子を奪ったのは俺なのだが・・・。

それが反って向井の執着を生んだようだ。

だが1度別れた関係を修復させるのは難しい。

俺が行った事実を霧子に証明できるなら話も別だが・・・。

まあ俺の行動を暴く事は無理だ。

その代わり、俺は自分の夢を捨てて1人の女を選んでいる。

仕事を選んで女を守れない向井とは違う。

そう思っていても、深夜に1人で車に乗っていると、向井の行動が不気味に感じられた。

2008年5月25日日曜日

第12話:2人の関係

大阪駅の地下街のオープンテラスのカフェの前、亮は霧子が来るのを待っていた。

2人の待ち合わせは、夜の8時。

地下街は人通りが多く、少し離れた場所に視線を移すと、

人混みで霧子が来るのを確認する事すらできない。

亮は予め用意しておいた雑誌を読み始めるが、雑誌の内容に集中できなかった。

そんな中、スーツの女性が亮の前に現れた。


「ごめん、待った?」

亮が顔を上げると、息を切らせた霧子が立っていた。

「随分、待たされたかな」そう言って亮は微笑んだ。

「店は私が予約しておいたから、地上に上がろう」

「OK」


2人は地下から地上に上がった。

大阪の梅田にあるお初天神通りに入り、その途中にある大きな洋風の扉の店に入った。

霧子が扉を開くと、中で待機していた店員が頭を下げる。

「いらっしゃいませ」

「8時半に予約した奥田です」

「2名で予約の奥田様ですね。テーブルをご用意しております。こちらへどうぞ」

照明が少し暗く、各テーブルの上にはランプが置かれている。

料理など暗くて良く見えないが、どちらかと言うと居酒屋とバーの中間に位置する店の雰囲気だ。

シンプルな料理が多く、あまり手の込んだ料理は見当たらない。

お肉やチーズ、それにワインを主に扱う店だと亮は判断した。


店員に案内されて席に就くと、既に霧子はメニューを開き店員に注文をしていた。

「じゃあ、ワインはこのボトルで、料理の方は、このコースでお願い」

「すぐに、ご用意させて頂きます」

店員がテーブルから離れた後、亮は店の中を見渡した。

「この店に慣れてるね」

「仕事終わりに友達と飲みに来る所なんだけど、凝った料理はないけど飲むには丁度いいと思うの」

「しかし驚いたな。酒の弱い君が、こんな店を知ってるなんて」そう言って亮は笑った。

店の雰囲気を観察した後、亮は視線を霧子に移した。

「一応、これでもワイン好きなんですよ!」霧子は少し拗ねて見せた。

その様子を見て亮は笑った。


1時間程経ち、霧子はかなり酔っていた。

亮は冷静に飲みながら、そうなる事を待っていた。

それ迄は明るい話題に触れながら霧子の笑いを誘っていたのだが、

そこから亮の狙いの話題に入る。

「悪いね。こんな形で大阪を去るのは辛いけど、いい思い出にはなるよ」

「そう・・・、この位なら、いつだって出来るわよ」

そう言って霧子は手に持っているグラスのワインを飲み干した。

「君は酒に弱いんだから、そのぐらいにしておいた方が良くないかな」

亮は霧子を子供に話すような口調で諭した。

その口調に反応した霧子は、「何、それ・・・。今日はあなたの送別会なのよ!」と切り替えした。

「そこまで言うなら、もう1本ぐらい飲んでも大丈夫かな?」

挑戦的な言葉を亮は口にして、霧子にお酒を飲ませようとする。

「大阪は楽しかったよ。特に君と出会えた事は、俺にとって最高の思い出だよ」

「そう・・・、そんなのどうだっていいじゃない・・・」

霧子は亮の思惑通り、アルコールが回り思考能力が落ちている。

「実は、今日は飲み明かそうと思って、ホテル予約してあるんだけど、後で行くかい?」

「いいわよ・・・。ホテルでも何処でも行って飲みましょう・・・」

「そうさせて貰いますよ。お姫様」

「私は姫様ではない! 霧子と言う名前があるのよ!!」

「はいはい、霧子様」

「様は要らない、霧子でいいの!!」

亮に乗せられた霧子は、酔って上機嫌になっていった。

(これで俺の手中に落ちたな)


2時間経ち、亮は霧子を連れて梅田の街を歩いた。

しかし霧子の足は上手く前に出せなくなっている。

そこは亮が霧子の肩を抱き、ゆっくりと歩く方向へと導いた。

「俺はね、この都会の街に憧れて大阪にでてきたんだよ」

「・・・」

霧子は亮の話を聞いても、まともな返答ができない程酔っている。

「本当なら、この街に自分の店を持つ事が夢だったんだけど、いつの間にか、その夢は潰れていたよ」

「えっ・・・、誰に潰されたの!!」

「君だよ。君が現れて、俺は自分の夢が潰れても君と一緒に居たくなってしまったよ」

「えっ・・・、じゃあ一緒に居たらいいじゃない!」

「じゃあ、そうさせて貰うよ」

亮は大阪駅の方に向って、ゆっくり歩き始めた。


酔っている時、歩くと酔いが余計に回る。

どんどん霧子は酔いが回り、いつの間にか亮に肩を支えられながら眠っていた。

次に霧子が目を開けた場所はホテルの部屋だった。

しかし霧子は酔っている。

冷静な判断が働かず、座っていたソファーの上で寝ようとした。

そこに亮がワインを持って現れた。

「あれ? 何処に行ってたの?」

「ワインを用意していたんだよ」

そう言って亮は左手のワイングラスを霧子に見せた。

「2次会」

さすがに霧子も気分が悪いのか、亮の方に手を向けて飲めない事をアピールした。

「お姫様は先程迄、あれだけ飲んでいたのに、ここでは飲めませんか?」

少し呆れ口調で亮が言った。

自分の思考能力が落ちている事に霧子は気付いたが、今更、どうしようも出来ない。

「ごめん・・・、お酒は許して・・・、その他の事なら何でもするから・・・」

亮は霧子の横に座り、ワイングラスを1つ霧子に持たせた。

持たされたワイングラスの中にワインを注がれ、霧子は呆然と見る事しかできない。

「ごめん・・・、もうお酒は飲めない・・・」

「ハハハ、さっきの勢いはどうした」

亮は笑っているが、霧子には亮の顔すら歪んで見える。

「今日は最後迄、付き合って貰うよ」

そう言って亮は自分のワイングラスにもワインを注いだ。

やがて霧子は意識を失い、持っていたグラスを床に落とした。

「眠ってしまったか」

亮はソファーから立ち上がり、霧子の頬にかかる髪を上げ、霧子が寝ている事を確認した。

亮は霧子の鞄を取って鞄を開け始めた。

鞄の中身を慎重に探るが目的の物が見付からず、

今度は霧子の上着のポケットを軽く叩き出した。

手の内側に長方形のプラスチックのような物が当たると、それをポケットから取り出した。

霧子の携帯だ。

そのまま霧子の着信拒否の内容を確認して解除した。

「もう、この人の着信拒否も必要ないな」

着信拒否されていたのは、向井の電話番号だった。

以前、亮が霧子を送った時、向井の電話を着信拒否するように設定していた。

次にメールの簡易転送先の設定画面を開くと、そこには亮のメールアドレスが入っていた。

それも亮の手により削除された。

「これで完了だ」


そう霧子の携帯には、亮が仕掛けた着信拒否の設定で、

向井からの電話は繋がらないように設定してあった。

それだけではない。

霧子の携帯の機能で、受信・送信メールは、全て亮の携帯に送られる。

着信拒否は向井の携帯にも施されている。

以前、向井が亮の店で薬によって眠らされた時、亮は向井の携帯の設定を触っていたのだ。

2人にとって亮の存在は、全く関係のない人だった。

だから何か起きても誰も疑う余地がなかったのだ。


俺は自分の目指す道を捨てて迄、一人の女を手に入れる事に夢中になってしまった。

それも今日で終わり。

霧子さえ手に入れられば、また明日からは自分の目指す道に戻ろう。

また大阪で新しく働ける店を探そう。


次の日、霧子が目を覚ましたのは朝の9時。

「おはよう、霧子、目が覚めたんだね」

霧子は亮に声を掛けられ、慌てて自分の状況を確認した。

布団が掛けられバスローブを着せられていた。

(えっ、まさか・・・)

テーブルの近くには何本ものワインのボトルが倒れている。

(あれだけの量を飲んだの・・・)

「霧子、朝食でも行かないか?」

(いつから、霧子って呼ばれるようになってるの?)

霧子には今の状況が掴めない。

「昨日・・・、酔って寝てしまったの?」

「たくさん飲んだ後、一緒にベッドに入ったよ」

(何で、まだ別れて半年も経ってないのに他の男性と関係を持つなんて・・・)

心の中で霧子は向井に対する気持ちが残っているのか、

何処か向井に申し訳ない気持ちが浮かんでいる。

「もしかして、俺は霧子の気持ちを無視して抱いた?」

この状況で酔って抱き合ったなどと言えない。

「ごめん、私、昨日の事を覚えてないかもしれない」

霧子は右手で額を押さえた。

「昨日、俺が君に告白した時、君も俺の事を好きだと言ってくれたんだ」

自分の言った事すら何も覚えていない霧子は、ずっと頭を抱えていた。

「・・・もしかして、私、あなたと付き合う事になってるの?」

「あぁ、一応だがね。俺が霧子に告白してOKのサインを貰ってるよ」

短絡的な遣り方だったが、誠実な霧子には堪える話だった。

「ごめん、今日は家に帰らして、また連絡するから・・・」

「あぁ・・・。もし俺の事が嫌になっても、昨日、俺が言った事は忘れないでくれ」

(何なの、昨日、言った事って?)

亮は霧子の前でバスローブを脱いで裸になった。

霧子は目を逸らしたかったが、それすらも出来ない。

その状況で亮は平然と自分の服に着替えた。

「ごめん、シャワー浴びてくるね・・・」

霧子は亮に遠慮するようにシャワーを浴びに行った。


2人はホテルをチェックアウトした後、大阪駅の構内に入り地下鉄を目指して歩いた。

地下鉄に乗る時には、亮は霧子の腰に手を回し、霧子を自分の方に寄せている。

そんな状態を霧子は受け入れたくもなかったが、自分の起こした事だと思って我慢していた。

心斎橋駅に着いて、霧子は慌てて電車を降りようとした。

「霧子、俺の気持ちに応えてくれて、本当にありがとう。また今晩にでも電話するよ」

電車の扉が閉まり、亮の乗る電車は南の方角へ走り出した。

2008年5月17日土曜日

第11話:罪悪感

来月末で働いている店が閉まる。

正直、お酒の作り方など、今の俺にはどうでも良くなっていた。

それより霧子の気持ちを手に入れる方に頭が回っている。


亮は愛車に乗って霧子の住むマンションへ向った。

車をマンションの前に停めて、亮はマンションのエントランスホールに向った。

集合玄関機の前で霧子の部屋の番号を入力して、呼び出しボタンを押した。

「はい!」

霧子の声が聞こえてきて、亮は「香川です」と言うと、「どうぞ」と返事が聞こえた。

『ウィーン。 カチャッ!』と自動で鍵が回る音が聞こえる。

亮は自動扉を通過して奥へと入った。

(ようやく正式な招待を受けて、ここに来る事ができたか)

今迄、霧子が酔って送るのに不便な思いをしてきたが、

今日は中から開けてもらえたので苦労する事がない。

それが亮にとって、少し嬉しく感じた。


霧子の部屋の前に着くと、亮は呼び鈴を鳴らした。

すぐにドアが開き、扉の隙間が出来ると、そこから亮は花を通した。

扉の向こうから「綺麗」と言う霧子の声が聞こえた。

亮は扉を開けて霧子に「こんばんは」と言って顔を見せた。

「少し散らかっているけど、あがって♪」

亮は花を霧子に渡し、靴を脱いでリビングへ入って行った。

14畳程の広さのリビングに対面式のキッチンが見える。

そのキッチンには湯気が舞い上がり、オリーブオイルの匂いがする。

「いい匂いだね」

亮はキッチンから窓の方へ視線を変えた。

(綺麗な夜景だ)

霧子の部屋は12階、その高さから見る夜景はビルの光が一面に広がり、

外の世界が綺麗に見える。

(こうやって霧子の部屋を見ると、俺と違う世界に住む人だと思い知らされるな)

真剣な眼差しで外の光景を見た。


1時間も経てば、既に2人はグラスを片手に会話を楽しんでいた。

「そのお客さんは、結局、家に帰れず駅員さんに起こされたんだよ」

霧子は亮の話を聞いて笑っていた。

「それで仕方なく、そのお客さん、うちの店に戻ってきて、朝までマスターに付き合って貰ったんだよ」

亮は身振り手振りで、話を面白可笑しく表現した。

その亮の様子に霧子は惹かれるものを感じていた。

霧子のグラスにワインが入っていないのを確認すると、

亮は自然にワインを霧子のグラスに注いでいた。

楽しい時間が刻々と流れる中、2人は終始笑顔を絶やさない。


時計の針が10時を示し「いけない。 明日も仕事だね」と亮が言った。

普通に2人が出会っていれば、どれだけ良かったのか? と亮は頭の中で思っていた。

(こんな素晴らしい女性を俺は人から奪おうとしたんだな・・・)

亮に大きな罪悪感が走り、後悔の念が頭の中を巡ろうとした。

突然、亮はテーブルに肘を付き下に俯いた。

「どうしたの?」と亮の様子に霧子は少し驚いた。

「いや、何もないよ。 少しだけ考え事があってね・・・」

亮の様子に霧子はどう対応すれば分からない。

「よかったら話して?」

亮はゆっくり顔を上げて「来月末、うちの店、閉めるんだよ」と静かに言った。

「えっ?」

霧子は亮の話が聞き取り難く、一瞬、自分が聞いた話が嘘のように思えた。

「こんな話、言っても仕方ないけどね。 あの一件でマスターは店を閉めると言い出したんだ」

あの一件とは、向井の件だと霧子にも想像がついた。

「でも、あれは、あの人のせいであって、マスターが責任を感じる必要もないでしょ」

霧子は亮に諭すように話した。

「そうも行かないんだ。 あの写真はうちの店で撮影されてるからね」

「ごめん、マスターが店を閉めるのは私のせいね・・・」

「店を閉めるのはいいんだ・・・」

「え? でも香川さんのお仕事を私が奪ってるのよ」

「それは仕方ないさ」

亮は少し微笑みながら霧子に言った。

「ごめんなさい・・・」

霧子は亮に頭を下げた。

「は~、白けるな~。 こんな美人と食事できるなら、仕事を失っても我慢もできるよ」

「でも・・・」

霧子の中で罪悪感が大きくなっていくのを亮は期待した。

(もう少しだ。 もう少し悪いと思う気持ちが大きくなったら、俺の思惑通りなんだ!)

「まあ、バーテンの夢は捨てて田舎に帰ろうと思ってるんだけど、

最後の思い出に俺とデートして貰えないか?」

その言葉に霧子は迷った。

霧子は亮に対して、特別な感情は持っていない。

しかし、今迄、亮に相談に乗って貰ったりと世話にもなっている。

デートして亮の気分が紛れるなら、1日ぐらい付き合おうと霧子は思った。

「うん、いいわよ」

「じゃあ約束だぞ」

亮は少し微笑んでグラスに残っているワインを一気に飲み干した。

そしてグラスをテーブルに置くと帰り支度を始めた。

「今日はごちそうさま、本当に美味しかったよ」

「ごめんなさい、辛い時なのに何もできなくて・・・」

亮は霧子の言葉を気にせず、上着を手に取ってから玄関に向かった。

その後ろを霧子が歩いてきた瞬間。

亮が霧子の方を振り向いた。

「今度のデート楽しみにしてるよ♪」と言って霧子に微笑んだ。

霧子は少し戸惑いながら小さく頷いた。


せっかくのチャンスを逃したが、まだ霧子の中に向かいは居るかもしれない。

そう思うと、何もできずに家に帰る事になってしまった。

少し時間を置いて、俺の困った姿を見れば、霧子は自分の罪悪感から、

今の俺をほっておく事もできなくなるだろう。

2008年5月10日土曜日

第10話:償い

前回の1件で、向井と霧子の関係は終わった。

しかも、あの1件に俺が絡んでいる事は誰も気付いていない。

マスターは自分の店で撮影された写真を見ている筈だが、

俺に何も言ってこなかった。


霧子が向井と別れて3ヶ月が経とうとしている。

亮は2日置きで霧子に電話をして、表向き失恋した霧子の気持ちを気遣う振りをしていた。

既に霧子とは、友人関係迄進展して一緒に出掛ける事もあった。

そして2人は週に1度は飲みに行った。

飲みに行くのは、亮が休みの日。

霧子の仕事が終わり2人は待ち合わせする。

今日は亮の休みの日、待ち合わせの場所で2人が揃うと、

お酒の飲める少し洒落たカフェに向った。


店は基本的に亮のお勧めの場所。


亮は仕事柄、お酒を扱う店には詳しい。


あまり暗い雰囲気の店を選ばず、照明の明るい店を選んでいた。


ボトルワインとコース料理を店員に頼んでから2人は、いつものように話し始める。


「仕事の方、忙しそうだね」

「少し大きな仕事が取れそうなの」



以前に比べ2人の口調は親しくなっていた。


別れてから霧子は向井の事を忘れる為、忙しい仕事ばかり選んでいた。

それが上司に認められ、今迄よりも大きなプロジェクトを担当する事になった。

「じゃあ、今日はお祝いだな♪」

丁度、店員がワゴンを押して来た。

「シャトー・マルゴーでございます」

店員はワゴンの上で、ワインクーラーからワインを取り出した。

乾いた布でワインを一拭きして、オープナーでコルクを抜くと、

「後は俺がやるから下がって貰えるかな」と亮が言った。

店員は乾いた布でワインの口を軽く拭いて、ゆっくりとワインを亮に渡した。

そしてグラスをテーブルの上に置くと「失礼します」と言って、店員は下がった。

亮は霧子のグラスと自分のグラスにワインを注ぎ、

グラスを自分の目の高さに持って行き、グラス越しに霧子を見つめた。

少し微笑んで霧子もグラスを手に持った。

「今度のプロジェクトの成功を願って乾杯」

そう言って亮はグラスを軽く霧子のグラスに当てた。

霧子は笑顔で「頑張るよ」と言った。

「今度、今迄のお礼をしたいんだけど、美味しいものでも食べに行かない?」

亮はグラスをテーブルに置き、「気持ちだけ貰うよ。

まあ奥田さんの手料理なら喜んで受けるけどね」と言った。

霧子は少し考えたが、何度か亮に家に送って貰っている事を考えると、

亮に対して警戒心が解けている。

「あまり料理は上手くないけど、それで喜んでくれるなら、

それでもいいわよ。 今度、私の家に来てもらえる?」

「喜んで」

亮は霧子の方を向きながら微笑んだ。

「再来週の月曜から海外に行くから、来週の週末辺り都合の良い日はある?」

「来週は木曜日が休みだから、その日はどうかな?」

「じゃあ、来週の木曜日ね」

「了解」亮は微笑んだ。


次の日の夜、亮とマスターは客が居なくなってから話しをしていた。

「亮、お前は何故、バーテンダーを目指したんだ?」

「私ですか? 色んな事情を抱えた客に、少しでも元気を与えるお酒を造りたいと思ったからですよ」


「そうか、お前も考えがあって、バーテンダーを目指したんだな」

「マスターも目指すものがあって、バーテンダーになったのですよね?」

マスターは少し苦笑して「いや、ワシはお前のように目的は持ってなかったよ」と言った。

「じゃあマスターこそ、バーテンを目指した理由は何なのですか?」

と亮は不思議な顔をしながら聞いた。

「ワシは、成り行きでバーテンダーになっただけだ」

その話に亮は驚いた。

「でも、バーテンダーを目指したから、立派なバーテンダーになれたのですよね?」

マスターは笑いながら、「ワシは1度もバーテンダーになろうと思ってなかったよ」と言った。

「自分の店を展開して、見習いに店を持たしてオーナーとして成功しているじゃないですか」

「今迄は成功したと思っていたさ。 しかし向井の事があってから、成功したとは思えん」

「言葉悪いのですが、向井さんの件はマスターと無関係ですよ」

あの日、早川が店に戻ってから亮は話を聞いているので、ある程度の状況も知っている。

しかし亮は知らない話になっている為、マスターから何も聞かされてもいない。

「ワシは、あの時、お前が向井の件を潰したと思ってたんだ」

その言葉に亮は焦りが生じた。

(やっぱり、マスターも俺を疑っていたか・・・、まずいな・・・)

一瞬間が空いて、マスターは口を開いた。

「でもな、お前はワシの所に来てから、ひたすらバーテンダーを目指してる。

誰よりも真面目にだ。 そんな奴を疑ったら、ワシも人として考えもんだ」

「あの日、何があったのですか?」

亮は覚悟を決めて話を聞く事にした。


あの日、顔も知らん男に写真が届けられた。

その写真には、この店で向井と知らん女性が抱き合っている姿が写っていたんだ。

向井はジャケットを羽織っていたが、女性の方は下着姿だった。

店の中でするような行為だとは思えんし、これまで向井は、そんな不祥事を1度も起こしていない。

店は亮に任せていたから、当然、お前が居る前で、そんな行為が出来る筈もなかろう。

だから向井に対して、お前が仕掛けた罠だと思ったんだ。

正直、次の日、お前をクビにする事だって考えていた。

しかし、次の日もお前は、働いている間、冷静に仕事をしておった。

普通の奴なら、あれだけの事を起こして普通に仕事はできん。

それが出来る奴は、まず何もしていなかったか、本物の悪人だけだろう。

ワシが知る亮は、まず悪人ではないと思っておる。

だからワシはお前を信じる事にした。

だが、あれだけ嫌な目に遭わしてしまった向井には申し訳なくてな。

あいつも、あれ以来、行方をくらましてしまった。

会社の方に連絡すると、退職届けを出して、今月末には仕事を辞めるらしい。

既に会社に顔を出してもおらんそうだ。

あいつの人生を・・・、ワシが無茶苦茶にしてしまった。

ワシが出来る向井への侘びは、不祥事が起きた、この店を閉める事だ。

その話を聞かされ、亮は天井に顔を向けた。

「本気で店を閉める気ですか?」

「お前には申し訳ないが、これぐらいしかワシは向井に詫びる方法を知らん」

(全く情けない話だ。 あの程度の事で責任負った言い方するなんて・・・)

今の亮は店の事など、どうでも良かったのかもしれない。

霧子の気持ちを自分の方に向けるので頭が一杯だった。

「じゃあ、マスター、俺はいつまで働かせて貰えるのですか?」

「来月末、この店を閉めるつもりだ。

亮の働き先は、以前、この店で見習いをしていた奴に頼もうと考えている」

さすがの亮も店を閉める話は少し辛かった。

(参ったな、いきなり失業か・・・。 今更、新しい場所で働く気にもなれないしな・・・)

「亮、すまん・・・」

マスターは亮の方を向き頭を下げた。

しかし、その話を利用して、更に霧子の気持ちを自分の方に向ける方法を考えついた。

『どうせなら、この話を使って、今度の木曜日に目的を達成しよう』

2008年5月2日金曜日

第9話:証拠写真

梅雨の時期に入り湿気が漂い、店の外は蒸し暑く、歩くだけでも汗が流れた。

そんな様子を眺める亮は、店の中に1人でいた。

今日は珍しくマスターが休みを取り、仕込みから亮が行っている。

そこに『カランッ』と鈴の音が鳴り、店の扉が開いて1人の女性が入ってきた。

その人が訪れるのを亮は待っていた。

「いらっしゃいませ」

店に入ってきたのは霧子。

亮は霧子の表情を伺いながら「心の準備は出来ましたか?」と尋ねた。

何か思い詰める表情をしながら、亮の問いにゆっくりと頷いた。


丁度、その頃、マスターは知人の店で祝いの準備をしていた。

店はマスターの名前で貸し切られ、今日は他の客が来る事もない。

普段、自分の店で着るベストを着て、マスターは厨房に入って料理をしている。

「どうだ謙吾。 久し振りに作るワシの料理は♪」

上機嫌のマスターの横で謙吾と呼ばれる男は微笑んでいた。

体格の良い謙吾は微笑むと凄く人懐っこい顔になる。

「今日は随分、ご機嫌良いですね」

謙吾の太い声がマスターに届くと、マスターは笑顔で頷いた。

謙吾は、マスターの店で見習いをして店を出している。

向井がマスターの店に行くようになった頃、謙吾は見習いで働いていた。

お互い新社会人として苦楽を共に歩んできた。

その為、謙吾は向井と仲が良かった。

「古くから常連の向井だ。 今日ぐらいはワシも頑張らんとな」

「じゃあ、後は頼みましたよ。 俺は店の中の準備しますので」

そう言って謙吾は店のホールに出て行った。


今日この店で、向井が霧子にプロポーズをする。

そこに招かれたのは、大阪に居た頃にお世話になった上司や同僚である。

霧子からOKの返事が出た瞬間、店の中が婚約パーティーの場に変化する。

マスターを中心に、向井と一緒に来る常連客が企画した。


1時間後、店の中にはたくさんの人で賑わい、向井を中心に色んな人の姿があった。

初老の男性が向井に近付き「いつお前の婚約者はくるんだ?」と言った。

「小阪部長、これからプロポーズするのに婚約者って言い方は、まだ早いですよ」

向井の返答に初老の男性は笑いながら「でも明日には婚約者になってるんだろ。

それとも違うのか~♪」と向井を冷やかした。

そんな上司の冗談を聞きながら向井は時計を見た。

時刻は19時50分を超えている。

予定では店に20時の待ち合わせの筈だった。

(霧子の奴、遅いな・・・。 そろそろ始まるぞ・・・)

向井は胸ポケットから携帯を取り出し霧子に電話を掛けた。

しかし呼び出し音が鳴り続け、霧子が電話に出る様子はなかった。

マスターが向井に近付いて「そろそろ始めるけど、まだ彼女は来ないのか?」と言った。

「まだ霧子が来てないので、俺、店の周りを見てきます」

そう言って向井は店を出て行った。


亮の居る店では、友人の早川が椅子に座っていた。

「そろそろ時間だから、これを届けてくれるか」

亮は大きな封筒を早川に渡した。

「これを向井って奴に渡せばいいんだな?」

「そうだ」

早川は封筒を受け取ると、椅子から立ち上がり表の扉を開けた。

亮が早川の傍に駆け寄り小声で話した。

「その中に写真が入っている。その写真を封筒から出して、他の人にも見えるようにしてくれ」

「あぁ」と早川は小さく返事して店の外に出た。

亮は店の奥に戻りカウンターに座る霧子の方を見た。

亮の視線を感じた霧子は「こんな役目をお願いして、本当にすいません」と頭を下げた。

「辛いとは思いますが、ここは我慢してください。

その方が奥田さんの為にも絶対に良いですから」

「はい」


マスターの居る店に早川が着く頃、既に時計の針が20時10分を示していた。

皆、霧子の到着を待ちわびている。

そんな状況の中、店の扉が開き1人の男性が入ってきた。

亮の居る店から早川が封筒を持ってきたのだ。

店の中に居る人の視線が早川の方へ向いた。

この店に早川を知る者は居ない。

早川が店に入り、辺りを見渡した為、この店のマスターである謙吾が早川の傍に駆け寄った。

「すいません、今日は貸切の為、他のお客さんは入れないんですよ」

太い声が店に響く。

「ここに向井って言う人は居るか?」

向井の名前が見知らぬ男性の口から出たのでマスターが反応した。

「アンタ、向井の知り合いかな?」

「いや、俺は人から頼まれて、これを向井に渡してくれと言われて来たんです」

封筒をマスターに見せて早川は微笑した。

「後、少しで戻ってくると思うから、少し待ってくれるか?」

「フッ!」と早川は軽く息を鼻から吐き出した。

そこに向井が扉を開けて店に戻ってきた。

息を切らせながら「ハァハァ、すいません! まだ仕事終わっていないのかもしれません。

連絡も取れないんですよ」と向井は大きな声で言った。

早川は後を振り向いて向井と向き合った。

「アンタが向井さんだな」

いきなり見知らぬ男性に声を掛けられ、向井も少し驚いたが、

すぐに冷静さを取り戻して「君は誰の知り合い?」と聞いた。

早川は苦笑いして「奥田さんの知り合いですよ」と答えた。

その言葉に向井の表情が変わり「霧子の!」と叫んだ。

向井の叫び声で、周りに居る人達は一斉に早川と向井の方を向いた。

「霧子は、どこに居るのか知ってるのか?」

向井は早川の両手を挟むように腕を掴み問い詰めた。

「ああ、知ってるよ」

早川は向井の様子を冷静に見て微笑している。

この事態に冷静でいられる早川に対して、

向井は気持ちが熱くなり「霧子はどこに居るんだ!」と早川に向って叫んだ。

向井の様子が尋常でないと思い、マスターが向井に近付いて左手を掴んで後に引いた。

「向井、やめるんだ。 この人は霧子さんが遅れる理由を伝えに来てくれたんだ」

向井はマスターに腕を引かれ早川の腕を放した。

「それで奥田さんは、いつここに来るのですか?」

冷静に対応できるマスターが向井の前に立ち、穏やかな口調で早川に質問した。

「ここには来ないよ。 俺はこの封筒を向井って人に渡すよう頼まれただけだ。

それにここには奥田さんは来ない」

向井の目が見開き、マスターを手で避けて早川の胸ぐらを掴みかかった。

「お前、霧子に何かしたのか!!」

いきなり胸ぐらを掴まれて気分を悪くした早川は、

向井の腕の振り払い向井の首を両手で掴んで、

首を自分の方に引いて腹に膝蹴りした。

あまりの衝撃に向井は床に跪いた。

「すまんが、表で私と話そう」

収拾が付かなくなる前にマスターが向井と早川を引き離し、

早川を店の外に押し出そうとした。

マスターに抵抗するように早川は足を踏ん張った。

そして「ここで見せたい物があるんだよ」と言った。

床に跪いた早川は「何をだ?」と苦し紛れに声を出した。

封筒から写真を取り出して、早川は写真を掴んだ手を頭上に上げた。

どんな写真なのかは早川も知らない。

早川も自分の手に持つ写真を見た。

その写真には向井が女性と酒を飲んでいる姿が写っている。

一瞬、周りの居る人の視線が釘付けになったが、

方々で「びっくりするよな」と安心する声が飛び交いだした。

だが早川の手に持つ写真は1枚だけではなかった。

早川は持っている写真を1枚ずつ手から離し床に落として行った。

落ちて行く写真は、床を滑り色んな人の所まで滑って行った。

その写真を周りの者が拾い上げだした瞬間、『何、これ!』と叫ぶ声が聞こえた。

それだけではない、他の者からは、『エッ・・・』とか絶句する声が聞こえる。

向井とマスターは周りを見渡し何が起きたのか気になりだす。

2人は声を出した人の写真を取り上げて見ると、

そこには店の中でわいせつな行為をする向井の姿が鮮明に写っていた。