2008年3月28日金曜日

第4話:裏切り

前回、霧子が店に来てから1ヶ月が経つ。
それ以来、霧子は店に姿を現していない。
そして転勤して初めて向井さんが店に現れた。

時刻は深夜の12時を過ぎて、店には常連客が5人居る。
マスターも常連客と一緒にグラスを傾けて飲んでいた。
店の中で仕事をしているのは見習いの亮だけだ。

「やっぱり名古屋と言えども、本社となると儲かっていますよ~」仕事が上手く行っている向井は上機嫌で喋っていた。

「今日は、俺のおごり、何でも頼んでよ!」

機嫌良く話す向井の様子を見て、他の常連客が「とか言って、実は全然上手く行ってなかったりしてな!」と笑いながら向井を冷やかした。

場が盛り上がっている最中、「お前、今日は彼女を連れて来てないけど、大丈夫なのか?」とマスターは向井の心配をした。

「アハハハ! まさか、ここに来ているとは言ってませんよ! 連れて来て皆の乗りが悪くなっても嫌ですからね~」マスターの心配は余所に向井は、この状況を楽しもうとする。

そんな状況下、カウンターの奥で騒がしい様子を冷静に見ている亮が居た。

(あんな綺麗な人を置いて、こんなくだらん騒ぎをして楽しいのか?)

亮の心の内では、店の雰囲気を壊す常連客を気に入らない点もある。

「向井~、そんな事言ってたら、他の男に彼女を取られるぞ~」と常連客の1人が冗談を言った。

「おいおい、お前達、少し酔いすぎだぞ。そんな事言われたら、向井も心配になるだろう」とマスターが言う。

「大丈夫ですよ~、本社に行けば、あの程度の女なんて、他にも一杯居ますよ~」酔い過ぎた向井の勢いを止める事は、誰も出来ない。


時刻が1時を過ぎた頃、カラン! と扉に掛かる鈴が鳴り、扉が開いた。

マスターが扉の方を向くと突然様子が変わった。

まるで見てはいけないものを見た時の様子。

マスターの様子に気付いた他の常連客も扉の方向へ向いた。

周りの者が次々と扉の方に視線を向け、驚いた表情をするので、向井も気になって扉の方を向いた。

扉の方向を見ると、向井の方を睨む霧子が立っている。

それを見て向井も表情が変わった。

「霧子・・・、お前、俺がここに居るのを知ってたのか?」向井は大阪に戻っている事を霧子に一言も伝えていなかった。

目の前に霧子が現れ向井も酔いが一気に冷めて行く。

「多分、そろそろ現れると思って」霧子の表情は険しい。

寒々しい空気が流れ、それを変えようとマスターが声を発した。

「お前達、早く、向井の彼女の席を空けてやれ!」他の常連客も霧子に気遣い、向井の横の席を空けた。

「さあ、どうぞ! ここを使ってください」と周りの者が笑顔を振りまくが、目だけは笑っていない。

明らかに最悪の状況に陥っている。

その後は腫れ物を触るかのように緊張感が漂い、場が静かになったままお開きを迎えた。

マスターが常連客を店の外に送って行く時、霧子がレジの傍に立つ亮に近付いた。

「香川さん教えてくれて、ありがとう」

そう一言残して、霧子は外に居る向井の傍に行く。


さすがのマスターも後味が悪いのか? その日の片付けは静かに行っている。

今更ながら霧子抜きで盛り上がっていた事をマスターは後悔していた。

そこに亮が「マスター、向井さん、大丈夫ですかね?」と話し掛けた。

「あ、あぁ、多分な・・・」

ホウキで床を掃いているマスターの表情は暗い。

「しかし、何故、向井がこの店に来ている事に気付いたんだろうな?」とマスターは呟いた。

その言葉に亮は、少し微笑しながら「女の勘って奴ではないですか?」と答えた。

(人の気持ちを逆なでするような付き合いなら、別れた方がいいのさ)

遠く離れる彼氏への想い、しかし裏切りを受ける事で霧子の想いに隙間が生まれようとしていた。

2008年3月19日水曜日

第3話:マティーニ

常連の向井さんが転勤して2ヶ月経った頃、この店に霧子が現れた。 丁度、マスターが他の店に行っていた時の事だ。

店の扉が開き、1人の女性客が入ってきた。

「いらっしゃいませ」

亮は普段より少しだけ低い声を出して、落ち着いた様子で女性客を迎えた。 店に入ってきた霧子の姿が亮の視線に入り、亮は少し驚いた。

(向井さんの彼女じゃないのか? 向井さんが転勤したのに、何故、この店に?)

亮が驚いた様子も気にせず、霧子は静かにカウンター席の奥に移動する。 霧子が椅子に座ると、亮は「何を飲まれますか?」と注文を尋ねた。

「マティーニを・・・」静かな声で言う。

亮は酒を造り始めると霧子に話しかけた。

「マティーニって、昔、向井さんが好んで飲まれていた、お酒なんですよね?」

亮は霧子に笑顔を振りまく。 前回、霧子が店に来た時、向井が20代の前半の頃、 店でマティーニを好んで飲んでいた事をマスターから聞かされている。

少しでも場を和まそうとする亮の意図とは別に「あの人、ここには来ますか?」と霧子が話を切り替えた。

亮は返答に困ったが「いえ、来てませんよ」と事実を述べた。

「そう・・・、今度、いつ現れますか?」

向井の店に訪れる時なんて亮では検討もつかない。

「そうですね、来月辺りでも来るんじゃないですか?」と霧子が少しでも安心できる言葉を吐いてみた。

「そう・・・」亮の気遣いも虚しく霧子は落胆している。

亮はお酒をグラスに注いで、「向井さんが来られた時、連絡を差し上げましょうか?」とグラスを霧子に差し出す際言った。

霧子はグラスに気を取られ「ええ・・・」と戸惑いながら答えた。


夜の11時が過ぎた頃、マスターが店に戻ってきた。 裏口から入ってきたマスターは、カウンターに座る霧子の姿を見て驚いている。

「亮! 向井の彼女、来ていたのか!?」と小声で話しかける。

今更驚くマスターに呆れた顔を見せて、「もう3時間以上居ますよ」とグラスを拭きながら言った。

マスターは遠目に霧子の方を向き、「仕方ない向井に電話してやろう」とポケットから携帯を取り出す。

「電話する事なんてないですよ。向井さんが大阪に戻っていたら何も問題ないんでしょ!」1人で霧子を任された感が強い亮、苛立ちを隠せない。

「まあ、そうなんだけどな~」と言いながらマスターは取り出した携帯をポケットに戻した。

「それで、あの彼女は何を飲んでいるんだ?」静かな声で亮に尋ねた。

「前回と同じで、マティーニを飲んでいますよ」

「マティーニは、昔、向井が1番好きだったカクテルだ」

「その話は、この前教えて貰いました!」

「そうか・・・」

学生から社会人になり、働き始めると大きな壁にぶつかる。 学生の時に描いた理想。 大抵の人は現実を知り悩まされる。 学生時代、どれだけ机の上で勉強しても、それは机上の空論に過ぎない。 それを社会人になって実践しようとしても通用しないケースがある。 例え机の上で学んだ事が正しくても、現実社会では間違えているケースも稀にある。 そのギャップに勝てない場合、気持ちに逃げ出したくて酒を飲む事がある。
その時の酒が美味い不味いは別として、その人の記憶には酒の味が鮮明に残る。
年を重ねて行くと酒の好みも変わり、若い頃飲んだお酒から離れて行くものだ。
そして忘れた頃に若き日に飲んだお酒を飲むと、若い頃の苦い経験を懐かしむ。

向井にとってマティーニは、営業マンとして働き始めた頃の苦労の味。 辛い現実を知り、休みの日も休む事を忘れて仕事を頑張っていた。 その頃、この店に訪れて、連日、マティーニを飲んだ向井が居た。
その話をマスターが亮にしていたのだ。 恐らく向井も彼女となる霧子には、自分の昔話として、この店のマティーニの話をしていたのであろう。

時刻が1時半になり、店も閉店準備をする。 マスターがテーブル席に座る客に閉店時間を伝える為、ラストオーダーを取りに行った。 亮もカウンターに座る客に閉店時間を伝え、ラストオーダーを取る。

「申し訳ありません。2時にでこの店は閉店です。これでラストオーダーになりますが、何かご注文はありますか?」亮が霧子に話しかけると肘を付いて、頬に手の甲を当てて眠っていた。

(マティーニを4杯で眠るようなら、お酒は強くないか・・・)

亮はカウンターの奥からホール側に出てきて霧子の傍に近付いた。 空いたグラスや皿をお盆の上に乗せて、またカウンターの奥に戻る。

マスターがラストオーダーを取ってカウンターの奥に戻る時、霧子が寝ている事に気付く。

「タクシーを呼んで、自宅に送って貰うか」と苦笑いしながらマスターが言った。

「じゃあ俺がタクシー会社に電話します」

「あ~、その前に向井にも、この事を伝えてやろう」霧子が帰れるように手配を始めたマスターの様子を見て、亮は電話の傍にあるメモ帳を1枚破って自分の連絡先を書いた。 それを自分のポケットに入れた。

数分後、タクシーが店の近くの大きな通りに着いて、店の電話に連絡が入った。

「はい、では連れて行きますので、よろしくお願いします」とマスターが電話の応対をする。

「亮! 千日前沿いに大阪交通のタクシーが停まっているから、そこまで彼女を連れて行ってくれ」

「分かりました。じゃあ俺、少し出掛けます」

「頼む」

亮は霧子の傍に近付き体を揺らして起こそうとした。

「タクシーを呼びましたので自宅の方迄、送って貰いますよ。起きてください!」

「・・・・。」

寝ている霧子から何の反応もない。

「仕方ないな、よしっ!」と亮は霧子の脇の間に腕を入れて、霧子を持ち上げた。

脇に痛みが走り、「う~ん・・・」と唸るが霧子が起きる様子は一向にない。

霧子を右腕で支えながら左手で霧子の鞄を持ち、亮は店の外に出て行った。


商店街の裏通りから、千日前の大通りに向って歩くが、寝ている人を抱えて移動するのは辛い。 やっとの思いで大通りに出ると、大阪交通のタクシーは何台も停まっている。

(参ったな・・・、予約済みのタクシーが何台も停まっているぞ・・・)

亮は目の前に停まるタクシーから、次々とタクシーに尋ねて行く。

1台挟んで向こうから、「ワンショットさんの人?」と大きな声が聞こえた。
その声に亮が反応して、声を上げたタクシーの方を向く。

「ここ! ここ!」と大きな声の方角には、運転手が窓から手を出して亮に振っている。

予約したタクシーを見つけて、亮はタクシーに向って歩いた。

タクシーの後部座席のドアが開き、亮は霧子を後部座席に寝かせる。

「ハア・・・、ハア・・・、ハア・・・、すいません、この女性を送って貰えますか?」と亮が言った。

「どこまで送ればいいの?」眠る霧子の姿を見てタクシーの運転手は迷惑そうな様子で言った。

「参ったな、マスターに聞いてくるのを忘れたな・・・」

「お客さん、それじゃ~困るよ~」と怪訝そうな顔でタクシーの運転手が言う。

「ちょっと待ってくれ」亮は急いで霧子の鞄を開けて財布と手帳を探した。

手帳を見つけた時、亮はポケットからメモを取り出して、それを挟んでおいた。

亮はポケットから自分の携帯を取り出して、マスターに連絡を入れる。

「マスター、すいません、向井さんの彼女の住所は分かりますか?」マスターは既に向井に連絡を取って住所を確認していた。 その住所を亮に話している間、沈黙の間が流れる。

「はい、分かりました。では、そう運転手に伝えます」携帯電話を切り、「運転手さん、西長堀のグレインドハイツにお願いできますか?」と言った。

「はい・・・」運転手の返事は重い。

それは話している亮でも分かる。

「それじゃ、お願いします」そう言って亮は霧子を乗せたタクシーから離れた。


霧子の手帳には、亮のメモが挟まれている。

『ワンショットバーの見習い香川。  090-XXXX-XXXX、向井さんの事で何かあれば、いつでも連絡ください』

2008年3月15日土曜日

第2話:転勤

奥田 霧子、24歳。
この時、俺は霧子の名前も知らない。
名前を知るのは、まだこの先の事。
今は店に訪れた1人の客として霧子を迎えていた。

注文されたお酒を造る為、足元の冷凍庫から氷を取り出す。
それをアイスピックで叩き割っていたら、亮の目に霧子の姿が飛び込んだ。
霧子はテーブルに肘を付き、手の甲を鼻に軽く当てながら下に俯いていた。
(何か辛い事があって、この店に来たのか・・・?)
そんな考えが亮の頭に浮かぶ。
亮はシェイカーを振りだして、再度、霧子の方に視線を向けた。
前髪で表情を隠しているが、髪の間から僅かに見える瞳には、涙で瞳が光っているように見える。
(仕事で大きな失敗をしたのか? それとも失恋でもしたのか?)
シェイカーからグラスに酒を注ぎオリーブを添える。
そのままグラスを指で挟み、霧子の前に差し出した。
その時には霧子の瞳に涙など見当たらない。
(もう立ち直ったのか??? まさかな・・・)
亮は少しだけ微笑し、使った道具の後片付けをしだした。

ガタン!と音を立てて、裏口の扉からマスターが休憩を終えて入ってきた。
亮はその姿を見て肩の荷が降りた気がした。
静かな時間が流れ出し、10分程経つとマスターが亮の傍に寄ってきた。
「さっきは上手く造れたか?」と亮に囁いた。
「はい・・・、何とか・・・」
亮は自信のない表情をしながら答えた。
「そうか、じゃあワシは少し出かけてくるわ」
マスターは微笑みながら、亮を店に残す事を思い付いた。
「あ、はい・・・」と戸惑いを隠せず、自信のない返事をする。
夜の7時前後は、まだ店はそれ程忙しくない時間帯。
マスターは、裏口に向いながらベストを脱ぎ始めた。

店が暇な時は、マスターは他のバーに飲みに行く事がある。
今の亮同様、ここでバーテンの修行をして1人立ちしていった連中の様子を見に行く為だ。
そして店に居る見習いは、1人で客の対応をして成長させる。
そうやって、ここのマスターは何人ものバーテンを育てている。

店内の客は3人。
今はマスターの酒を目当てに訪れる常連客も居ない。
少し気が緩んだ時、亮は霧子の様子が気になりだした。
辺りを見渡し他の客の様子、店の外の様子、そして最後に霧子の姿を見た。
(それにしても綺麗な女性だ)
カウンターの端に座る、1人の女性客の美貌に亮は少し惹かれている。
亮が霧子の方を見ると、既にグラスは空になっている。
今は酒を堪能する事より、手元の携帯メールに集中していた。
携帯に集中している事で、亮が見ていても気付かれる様子はない。
そう思うと、亮は遠慮なく霧子の様子を見た。
色白で瞳の色は、純粋な黒ではなく、どこか茶系の色が混ざっている。
その上、鼻筋が良いので、顔立ちが日本人離れしている。
この2年、客商売を続けた亮にとって、女性に気を取られる事も少ない。
訪れる客を冷静に見る事があっても、その人に惹かれる事はあってならない。
そう思うと亮は、傍にあった布巾を取って、濡れたグラスを拭き出した。

一時のバーテン気分を味わおうとすると・・・。
「すいません、もう1杯頂けますか?」と霧子が酒の注文をしてきた。
「あ・・・、はい」
気になっていた相手から声が掛かり、亮は返事に戸惑った。
(参ったな・・・、俺のペースが乱れてる・・・)
亮は邪念を振り払い無心でお酒造りに集中した。
心乱れる事なく酒を造り終えると、お酒を霧子に差し出した。
それに霧子は「ありがとう」と静かに言った。

時間は刻々と流れ11時が過ぎる頃、霧子以外の客は誰も居なくなっていた。
まだマスターは他の店に行ったきり帰ってこない。
他の常連客が訪れない事から、亮は常連客が外でマスターと合流していると検討はついている。
既に霧子もマティーニを5杯飲み干している。
店内には2人、今の状況を考えるとバーテンが客に話をする事も許される。
亮は思い切って霧子に話す事にした。
「このお店は初めてですか?」
「・・・いえ」と霧子は冷たく答える。
声のトーンから会話を望む様子はなさそうだった。
(誰かと話したい気持ちもないか・・・)
そう思うと霧子の方に軽く微笑んでグラスの片付けを始めた。

トゥルルル! トゥルルル! 静寂の間を割って入るように電話が鳴った。
「はい、ワンショットバー」亮が電話に出た。
電話の向こうには、騒がしい状況の中、大きな声を発するマスターが居た。
「亮! 今から向井と常連さん3人連れて帰るから、フルーツボックスを4人前程用意してくれ」
「はい、分かりました」
亮は電話を切り、マスターに頼まれたフルーツボックスの準備に取り掛かった。
向井は、この店の常連客の1人。
亮はマスターの電話の様子から、10分も経たない内に戻ってくると判断した。
頼まれたフルーツボックスを10分程度で用意できない為、霧子の様子を気になっている場合ではない。
急いで冷蔵庫の中から、パイナップルやメロンを取り出し、次々と包丁を入れて行った。
しかし今度は「どなたかお客さんが来られるのですか?」と霧子の方から会話を求めた。
「はい、今から常連客が4人、店に来ます」と亮はフルーツを切りながら答えた。
亮の言葉で霧子は満足したのか、それ以上会話は膨らまなかった。

全てのフルーツを切り終えた亮は大きな皿に切ったフルーツを盛り付ける。
その最中、マスターが常連客を連れて帰ってきた。

「亮ちゃ~ん、マスターを連れて帰ってきたぞ~」既に酔っている常連客の1人が亮に向って言った。
急ぎ盛り付けを続ける亮は、手元を見ながら「皆さん、どうしたんですか? 今日は来ないのかと思ってましたよ」と言った。
「亮、来週から向井が名古屋に転勤するぞ。うちの店でも祝ってやろう」と常連客の後方に居るマスターが言った。
その瞬間、霧子がマスターの居る方向へ視線が向けた。
「あれ? 霧子、お前、店に来ていたのか?」
肩幅の広いスーツの上着を着て、少し小太りの向井が霧子の様子を見て驚いた。
向井の声に亮の耳も傾いていた。
(この人、向井さんのお連れか?)
「お~、何だ。 このお客さんは、お前の連れの女性だったのか?」とマスターが言った。
「あ・・・、はい。 私の彼女です・・・」
この場に霧子が居て困ったのか、向井の表情は硬まった。

向井 雅之、39歳。
温和な雰囲気ながら仕事では営業成績トップで年収も1千万を超えている。
今度の転勤で本社の営業部に異動する。
「そうだったのか、どうりで見覚えのある女性だと思ってたぞ・・・」
今更ながらとマスターも慌てて言い訳をしだした。
「あ~、マスター。 霧子ちゃんを亮ちゃんのお酒造りの実験台にしただろ~」
別の常連客が笑いながらマスターに言った。
「馬鹿、今から祝ってやるから、文句を言うな!」マスターは少し表情を硬くした。
普段、表情の険しいマスターでも、この常連客を迎える時は素の顔に戻る。
その時程、亮も気の休まる時はない。

そこから2時間、マスターが向井の送別会を仕切る。
他の客が居ない分、店の中は常連客で騒がしくなった。
「それで今度の転勤で、奥田(霧子)さんと結婚するのか?」と常連客の1人が向井に質問する。
その質問に向井は困った顔をしだした。
「あ、いや・・・、それはまだ先の話だ」
「いいのか~、こんな綺麗な彼女を置いて、向こうで安心できるのか~」と笑いながら常連客が言う。
「まあ、向こうの仕事が落ち着いたら、結婚するんだろう?」マスターは向井を立てようとした。
そんな笑い話の中、霧子が一言漏らした。
「いえ、この人は私との結婚なんて、これぽっちも考えていません」
場の雰囲気に寒い空気が流れ、一瞬で笑い声が途絶えた。

その後もマスターを含め常連客が盛り上がる中、ふと切り出される霧子の一言で場が静かになる事があった。
その間、亮は食べ物を用意をしたり、お酒造りを担当した。
「じゃあ今日は、この辺にして、次は向井が大阪に遊びに来た時にでも集まろう!」と常連客の1人が場を締め括りに入った。
「この人は、2度と大阪に戻ってきませんよ」
最後の最後迄、盛り上がる場を霧子が潰しに掛かる。
「そうだな・・・、向井も忙しいから、簡単に大阪に戻ってくるなんて出来ないよな・・・」
何とかマスターが向井のフォローに入るが、その言葉は霧子も聞く態度を示さない。
皆、霧子の一言で次に出す言葉に詰っていた。
「まあまあ、今度は2人の結婚式の2次会で、この店を使ってくれ」マスターが笑顔で言った。
「さすがマスター! 商売上手!!」とマスターの一言に常連客の1人が付け加えた。
それでも祝いの場に相応しくない、場の静けさが漂った。
向井の転勤は霧子にとって喜ばしい事でないと誰もが分かる。

客が全員店から出て行った後、マスターと亮は片付けを始めた。
「しかし、向井にあんな綺麗な彼女が居たんだな。でもあの嫉妬心は後々大変そうだな~」笑いながらマスターが言った。
「向井さんが忙しい人だから、幾ら綺麗な人でも溜まった物じゃありませんよ」
亮は裏口にあるダンボールを壊したり、椅子をカウンターに上げている。
「まあ、あれだけ綺麗な彼女が居るんだから、向井も心配でちょくちょく帰ってくるだろ」
「そうかもしれませんね」亮は苦笑した。

(あの2人は別れるさ)

向井の心配をするマスターと違い、亮は向井と霧子の仲は終わると判断した。

2008年3月2日日曜日

第1話:憧れ

俺は香川 亮、25歳。
現在、アパートを借りて、妻と2歳の娘と3人で暮らしている。
仕事は建設現場の作業。
朝から晩まで、体を動かしっぱなしで、仕事が終わる頃には、くたくたになる。
だが、この仕事は働いている実感が持てる。
そんな俺も、人の想いを知る事がなければ、今のように真面目な生き方に目覚める事はなかった。

5年前、あの女性と出会う事がなければ・・・。

徳島市内で生まれ育った俺は、10代前半の頃から都会の街に憧れた。
高校時代、アルバイトで稼いだ金の1/4は、大阪に出る為のお金として貯めていた。
そして高校を卒業した日、俺は迷わず生まれ育った徳島を離れている。

憧れの都会の街、大阪に出た俺が最初に働いた場所は居酒屋。
バーテンに憧れていた事もあり、まず酒を扱う仕事を望んだ。
しかし最初はホール係だった為、酒を造る事より注文や皿洗いばかりの毎日だ。
それでも最初の内は何でも新鮮味が感じられ楽しい。
それが半年続くと飽きてきた。
そんな飽きた毎日から離れるのを願ってか、俺は厨房の連中と喧嘩して、それ以来顔を出していない。

次の仕事は、俺より先に居酒屋を辞めた奴に誘われた、ホストまがいのアルバイト。
酒を作る点では、バーテンのような事もするが、本格的な勉強もせずに酒を造っている。
いい男を探して来る女性客は、そんな酒を喜んで飲む。
それも半年後には、仕事に飽きて辞めてしまっている。
辞めたと言うより、また喧嘩してしまったのだが・・・。

酒の造り方に少しでも拘りを持つ俺は、他の店員の酒の造り方が気に入らない。
隣で酒を造る店員を見ると、適当な分量で女性客に微笑みながら酒を造っている。
自分の手元も見ずに酒を造る事自体、酒造りを舐めていると思った。
今、考えれば、俺の方が場違いの場所で働いたと思うが・・・。
当時の俺は、それに気付けない。
だから、そいつを注意した。
その注意した奴が、2ヶ月後には店の№1になり、後々痛い目に遭わされている。

そして次は念願のバーに就職した。これが最後の酒造りの修行だとさえ思っていた。
店のマスターは愛想は悪いが、凄く拘りがあった。
マスターが酒を造っている時は、凄く酒造りに集中している。
酒が出来て客のグラスに注がれた瞬間は、店内のライトにグラスが反射して凄く輝く。
俺も何度かマスターに酒を造って貰っているが、とても俺なんかが評価できるレベルではない。
初めてマスターの酒を飲む客は、酒を口に含んだ瞬間、目付きが変わる。
そして、その酒を飲み干して、同じ酒を注文する事が多い。

店に来る客も癖のある客ばかりだ。
仕事終わりに来るサラリーマンでも、その雰囲気は癖の多いオヤジ連中が多い。
そんな店の雰囲気だから、本当の酒好きが訪れやすい。
それが俺にとって遣り甲斐を感じさせた。

それでも働き始めて1年は、グラスを洗わされる毎日が続く。
もちろん楽しい訳でもないが、マスターの酒の造る時は、手を止めて俺も見入ってしまっている。
いつか俺もマスターのように人を魅了する酒を造りたい。
そう願って、日々を過ごしている。

ある日、店に1人の綺麗な女性が訪れた。
1番奥の席に座り、手帳を開き、鞄からボールペンを取り出す。
丁度、マスターが休憩している為、俺が女性に注文を尋ねる。

「何か、お造りしましょうか?」

その台詞は、普段、マスターが最初に使う台詞だ。

「じゃあ、マティーニをお願い」

女性はボールペンを走らせながら、手帳から視線を外さない。
ここに来る客の中には、仕事の傍ら飲む人も結構居る。

そう、これが俺と霧子の初めての会話だ。