梅雨の時期に入り湿気が漂い、店の外は蒸し暑く、歩くだけでも汗が流れた。
そんな様子を眺める亮は、店の中に1人でいた。
今日は珍しくマスターが休みを取り、仕込みから亮が行っている。
そこに『カランッ』と鈴の音が鳴り、店の扉が開いて1人の女性が入ってきた。
その人が訪れるのを亮は待っていた。
「いらっしゃいませ」
店に入ってきたのは霧子。
亮は霧子の表情を伺いながら「心の準備は出来ましたか?」と尋ねた。
何か思い詰める表情をしながら、亮の問いにゆっくりと頷いた。
丁度、その頃、マスターは知人の店で祝いの準備をしていた。
店はマスターの名前で貸し切られ、今日は他の客が来る事もない。
普段、自分の店で着るベストを着て、マスターは厨房に入って料理をしている。
「どうだ謙吾。 久し振りに作るワシの料理は♪」
上機嫌のマスターの横で謙吾と呼ばれる男は微笑んでいた。
体格の良い謙吾は微笑むと凄く人懐っこい顔になる。
「今日は随分、ご機嫌良いですね」
謙吾の太い声がマスターに届くと、マスターは笑顔で頷いた。
謙吾は、マスターの店で見習いをして店を出している。
向井がマスターの店に行くようになった頃、謙吾は見習いで働いていた。
お互い新社会人として苦楽を共に歩んできた。
その為、謙吾は向井と仲が良かった。
「古くから常連の向井だ。 今日ぐらいはワシも頑張らんとな」
「じゃあ、後は頼みましたよ。 俺は店の中の準備しますので」
そう言って謙吾は店のホールに出て行った。
今日この店で、向井が霧子にプロポーズをする。
そこに招かれたのは、大阪に居た頃にお世話になった上司や同僚である。
霧子からOKの返事が出た瞬間、店の中が婚約パーティーの場に変化する。
マスターを中心に、向井と一緒に来る常連客が企画した。
1時間後、店の中にはたくさんの人で賑わい、向井を中心に色んな人の姿があった。
初老の男性が向井に近付き「いつお前の婚約者はくるんだ?」と言った。
「小阪部長、これからプロポーズするのに婚約者って言い方は、まだ早いですよ」
向井の返答に初老の男性は笑いながら「でも明日には婚約者になってるんだろ。
それとも違うのか~♪」と向井を冷やかした。
そんな上司の冗談を聞きながら向井は時計を見た。
時刻は19時50分を超えている。
予定では店に20時の待ち合わせの筈だった。
(霧子の奴、遅いな・・・。 そろそろ始まるぞ・・・)
向井は胸ポケットから携帯を取り出し霧子に電話を掛けた。
しかし呼び出し音が鳴り続け、霧子が電話に出る様子はなかった。
マスターが向井に近付いて「そろそろ始めるけど、まだ彼女は来ないのか?」と言った。
「まだ霧子が来てないので、俺、店の周りを見てきます」
そう言って向井は店を出て行った。
亮の居る店では、友人の早川が椅子に座っていた。
「そろそろ時間だから、これを届けてくれるか」
亮は大きな封筒を早川に渡した。
「これを向井って奴に渡せばいいんだな?」
「そうだ」
早川は封筒を受け取ると、椅子から立ち上がり表の扉を開けた。
亮が早川の傍に駆け寄り小声で話した。
「その中に写真が入っている。その写真を封筒から出して、他の人にも見えるようにしてくれ」
「あぁ」と早川は小さく返事して店の外に出た。
亮は店の奥に戻りカウンターに座る霧子の方を見た。
亮の視線を感じた霧子は「こんな役目をお願いして、本当にすいません」と頭を下げた。
「辛いとは思いますが、ここは我慢してください。
その方が奥田さんの為にも絶対に良いですから」
「はい」
マスターの居る店に早川が着く頃、既に時計の針が20時10分を示していた。
皆、霧子の到着を待ちわびている。
そんな状況の中、店の扉が開き1人の男性が入ってきた。
亮の居る店から早川が封筒を持ってきたのだ。
店の中に居る人の視線が早川の方へ向いた。
この店に早川を知る者は居ない。
早川が店に入り、辺りを見渡した為、この店のマスターである謙吾が早川の傍に駆け寄った。
「すいません、今日は貸切の為、他のお客さんは入れないんですよ」
太い声が店に響く。
「ここに向井って言う人は居るか?」
向井の名前が見知らぬ男性の口から出たのでマスターが反応した。
「アンタ、向井の知り合いかな?」
「いや、俺は人から頼まれて、これを向井に渡してくれと言われて来たんです」
封筒をマスターに見せて早川は微笑した。
「後、少しで戻ってくると思うから、少し待ってくれるか?」
「フッ!」と早川は軽く息を鼻から吐き出した。
そこに向井が扉を開けて店に戻ってきた。
息を切らせながら「ハァハァ、すいません! まだ仕事終わっていないのかもしれません。
連絡も取れないんですよ」と向井は大きな声で言った。
早川は後を振り向いて向井と向き合った。
「アンタが向井さんだな」
いきなり見知らぬ男性に声を掛けられ、向井も少し驚いたが、
すぐに冷静さを取り戻して「君は誰の知り合い?」と聞いた。
早川は苦笑いして「奥田さんの知り合いですよ」と答えた。
その言葉に向井の表情が変わり「霧子の!」と叫んだ。
向井の叫び声で、周りに居る人達は一斉に早川と向井の方を向いた。
「霧子は、どこに居るのか知ってるのか?」
向井は早川の両手を挟むように腕を掴み問い詰めた。
「ああ、知ってるよ」
早川は向井の様子を冷静に見て微笑している。
この事態に冷静でいられる早川に対して、
向井は気持ちが熱くなり「霧子はどこに居るんだ!」と早川に向って叫んだ。
向井の様子が尋常でないと思い、マスターが向井に近付いて左手を掴んで後に引いた。
「向井、やめるんだ。 この人は霧子さんが遅れる理由を伝えに来てくれたんだ」
向井はマスターに腕を引かれ早川の腕を放した。
「それで奥田さんは、いつここに来るのですか?」
冷静に対応できるマスターが向井の前に立ち、穏やかな口調で早川に質問した。
「ここには来ないよ。 俺はこの封筒を向井って人に渡すよう頼まれただけだ。
それにここには奥田さんは来ない」
向井の目が見開き、マスターを手で避けて早川の胸ぐらを掴みかかった。
「お前、霧子に何かしたのか!!」
いきなり胸ぐらを掴まれて気分を悪くした早川は、
向井の腕の振り払い向井の首を両手で掴んで、
首を自分の方に引いて腹に膝蹴りした。
あまりの衝撃に向井は床に跪いた。
「すまんが、表で私と話そう」
収拾が付かなくなる前にマスターが向井と早川を引き離し、
早川を店の外に押し出そうとした。
マスターに抵抗するように早川は足を踏ん張った。
そして「ここで見せたい物があるんだよ」と言った。
床に跪いた早川は「何をだ?」と苦し紛れに声を出した。
封筒から写真を取り出して、早川は写真を掴んだ手を頭上に上げた。
どんな写真なのかは早川も知らない。
早川も自分の手に持つ写真を見た。
その写真には向井が女性と酒を飲んでいる姿が写っている。
一瞬、周りの居る人の視線が釘付けになったが、
方々で「びっくりするよな」と安心する声が飛び交いだした。
だが早川の手に持つ写真は1枚だけではなかった。
早川は持っている写真を1枚ずつ手から離し床に落として行った。
落ちて行く写真は、床を滑り色んな人の所まで滑って行った。
その写真を周りの者が拾い上げだした瞬間、『何、これ!』と叫ぶ声が聞こえた。
それだけではない、他の者からは、『エッ・・・』とか絶句する声が聞こえる。
向井とマスターは周りを見渡し何が起きたのか気になりだす。
2人は声を出した人の写真を取り上げて見ると、
そこには店の中でわいせつな行為をする向井の姿が鮮明に写っていた。
2008年5月2日金曜日
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