2008年12月24日水曜日

第2話:日常

朝の六時、目覚まし時計が「ピピピピッ!」と小さく鳴り出した。目覚ましの音が耳に届くと、すっとベッドから足を降ろして女性がベッドの布団の中から出てきた。
ベッドから出てきたのは夕凪 恵。最近、五郎が気に入っている女性だ。夕凪は一階に降りてキッチンに立つと、すぐにお湯を沸かして食パンをトースターに入れる。七時迄には朝食と着替えを済ませ、夕凪は出かける迄の時間を新聞を読んで過ごした。

その頃、五郎も目を覚まさないと、余裕を持って出かける準備が出来ないのだが、最近の五郎は朝が非常に弱い。出かける寸前迄、目覚ましが鳴らないようにセットされている。
五郎が起きる七時二十分、夕凪は仕事に出掛けていた。ようやく五郎の家でも目覚まし時計が「ガガガガッ!」と凄い音を立てて鳴り出した。五郎の持つ目覚まし時計は、メーカーが世界一と提唱するだけあって半端な音ではない。一度、鳴り出すと五郎の家の外迄、その音は鳴り響いている。その目覚まし時計の音を聞いて、五郎は毎日心臓が飛び出るような朝を迎えていた。
「うわーっ! 起きないと!」
掛け布団が五郎の足で蹴られ、五郎の右手は目覚まし時計の音を止める為、手の平で目覚まし時計のボタンを何度も叩いた。目覚ましの音が止まると五郎はキッチンに行き、前の日の仕事帰りの途中コンビニで買っておいたパンを食べて、急いで着替えて出かけた。

五郎が新大阪の現場に着く頃には、夕凪は既に仕事が始まり忙しい時間帯を送っている。今日も病院内では三人、出産予定を迎える妊婦が居る。その内の一人が分娩室に入り、夕凪も急いで分娩室に入った。
分娩室では出産の痛みで凄い悲鳴が聞こえる場合もある。その痛みを少しでも和らげる為、夕凪達は一生懸命、出産する女性に呼吸の合図を送っていた。
「もう少しですよー! はい、息を吸ってー!」
そんな夕凪の指示が素直に聞ける訳でもない。妊婦は「ひいー! 痛いー!」と叫んだ。
そんな状況は日常茶飯事で、夕凪も焦る事なく、「お母さん、もう少しですよー! もう赤ちゃんの頭が見えてきてますからねー!」と大きな声で冷静に言う。

夕凪の後方には、自分の子供が産まれるのをまだかまだかと待つ夫の姿がある。しかし出産する妻の様子に、夫の方が腰が引いている。
そんな夫の姿を見て夕凪は、(もう、この旦那は何て情けない男なんだ! しっかりしなさい!!)と心の中で怒っていた。
実際、出産に立ち会った事のある男性であれば理解できるかもしれないが、妻の姿に驚く人も少なくない。それだけ出産時の苦しみは、男性の想像を超えている。
夕凪の性格上、その手の男性が苦手で、そう言う弱気な男性を見ると、男性の顔を平手で叩きたい気持ちを持つ。

数時間に渡って痛みに耐えて、ようやく赤ちゃんがお母さんの中から出てきた。赤ちゃんが滑るように出てくると、その赤ちゃんを布で受け止め赤ちゃんを綺麗な布で拭く。
赤ちゃんがお母さんのお腹から出ると胎盤も同時に出てくるが、胎盤を素早く処理している。赤ちゃんを拭き始めると赤ちゃんは大きな声で泣き始めた。
赤ちゃんに付いた血を拭くと、今度はお父さんに赤ちゃんを見せる。
「おめでとうございます。元気なお子さんが産まれましたよ♪」と夕凪は先程迄、苛立ちを感じた男性に笑顔で赤ちゃんを抱かせた。
初めての子供なのであろう。男性は自分の子供を恐る恐る抱き寄せた。抱いてから自分の子供の実感が沸いたのか、男性は不安な顔から笑顔に変った。
男性は赤ちゃんを抱いたまま、自分の妻の傍に近寄って、二人で赤ちゃんの顔を見て微笑んでいる。夫婦にとって新しい家族の誕生だ。

幸せな表情で自分達の子供を見て喜ぶ夫婦を見る。夕凪は、この仕事で一番嬉しい事は、幸せそうな家族の風景を見る事だった。

お母さんを病室に移動させると今度は分娩室の後片付けに入る。その段階に入ると夕凪は、自分の後輩に指示を出して片づけを任せる。夕凪は、次の出産を控える人を分娩室に入れる準備をした。優秀な助産師は、休む暇もなく次の仕事に取り掛からないといけない。

夕刻が近付いた頃、ようやく夕凪も一段落してナースステーションに戻った。
「夕凪さん、今日、一杯飲みに行きませんか?」と後輩の荒川が夕凪を誘った。
「いいわね~。それで今日は誰が行くの?」と夕凪は飲みに行く面子を気にした。
荒川は夕凪が気に掛かっている事を読んでいて「高橋さん」と答えた。同年代の高橋が居るのが分かると、夕凪も快く荒川の誘いを受けた。

その頃、五郎は背中で椅子の背もたれ倒しながら、だらしない格好で仕事をしている。五郎の方は夕凪の仕事とは違い、幾ら急いだ所で作業の進捗を進めるのに限度がある。しかし五郎を中心に作業が進められている為、五郎も手を休ませる訳にもいかない。周りに座る若い人達の作業を確認しながら、自分の作業を進めていた。
五郎の隣に一つ年上の高嶋と言う男性が座っている。五郎は高嶋の人間性が好きで、タバコを吸う時には必ず高嶋を誘っていた。
「高嶋さん、そろそろタバコに行こうか?」と年上の高嶋に五郎は年下に声をかけるように話しかける。
高嶋は五郎と違ってマナーを気にする方だ。周りを見てタバコを吸いに行っても問題ないか周りの様子を確認する。
そんな様子に五郎は毎回呆れているが、「行くぞ、高嶋さん!」と五郎は高嶋を催促した。
「あ……、そうだね、行こうか……」と高嶋はおっとりした返事をする。
五郎は部屋から出る時、手持ちのお菓子を持って行って喫煙室でお菓子を広げた。そこで二人は他愛もない会話を楽しみながらタバコを吸い始めた。

夕凪は荒川の誘いで新大阪の五郎の現場の近くで飲んでいる。店は西部劇の映画に出てくるような店を模造している。中には映画のポスターやカウボーイハットが所々飾られていて、ビールが良く似合う。
その二階の丸テーブルに夕凪達はテーブルを囲うように座っていた。
「めぐみー、今度さ、Dr.と飲みに行くけど行かない?」と同じ年代の高橋が酔いながら言った。
「私、Dr.は止めとくわ。あまり好みじゃない」夕凪は高橋の誘いをあっさりと断わった。
夕凪はプライドの高い人だが、付き合う男性に社会的地位を求める方ではない。夕凪が人情深い面がある為、同じように男性も人情深い男性を好んだ。
高橋の医者と飲みに行く話に後輩の荒川が興味を示した。「高橋さん、私じゃ駄目ですか~?」と聞いてきた。しかし高橋も二十代前半の女性を連れて行って、いい男性を取られたくない。そこは、「荒川、お前は外で見つけな!」と一蹴した。「何だ、つまんないの~」と荒川は少し拗ねた態度を取った。

夜の8時を超えた辺りで夕凪は五郎と話がしたくなっていた。「ちょっとごめん、少しメールさせて」と夕凪は周りを見渡しながら言った。
それを聞いて高橋は少し意地悪な笑顔で、「何~、どこの男~?」と夕凪をからかった。
男の話が出て夕凪の隣に座っている芳川が、夕凪の携帯の画面を覗き込んだ。「いや~、本当だ~。夕凪さん男にメールしてるよ~」と荒川は飛び上がる勢いで驚いた。

 こんばんは恵です。

 もう家に帰られましたか?

 私は、今、同僚と飲んでいる所です。

 家に帰ったら電話で話しませんか?

ここに居る女性で夕凪以外は皆、彼氏募集の者ばかり。
高橋は「ちょっと~、あんた、私にもその人の友達紹介してって言ってよ」と目を吊り上げて夕凪に言った。
(もう~、馬鹿女共め~)と夕凪は思い、夕凪は芳川の足を思いっきり蹴った。
夕凪に蹴られた芳川は、悲鳴を上げたが、それは誰も咎めない。
また男性の話題が出ると、この女性集団は大いに盛り上がりだした。

五郎は高嶋と一緒に仕事を続けている。若い連中は七時になると全員帰ってしまい、作業を二人で行なっていた。
そこに机の上の五郎の携帯に、メールが受信された事を知らせるランプが光った。「おっ、誰からだ」メールの相手を期待しながら五郎は携帯を開いた。夕凪のメールを読んで、突然、五郎は帰る準備に入った。
「高嶋さん! 今日は仕事は終わりだ! 帰るぞ!」と言い出した。
突然の五郎の話に高嶋は驚いたが、一人で残っても作業は進まない。高嶋も五郎と一緒に帰り支度をした。

五郎が家に帰ると時刻は既に十時を回っている。
(どうしようか・・・、もうメグはベッドの中に入っているかもしれないな?)と五郎は時計を見ながら思った。
朝の早い夕凪は、この時間帯になるとベッドの中に入ってテレビを見ている可能性が高い。しかし五郎は夕凪と話したい欲求に負けて、迷惑を掛ける事を承知で夕凪に電話をした。
電話の向こうから、「はい・・・夕凪です・・・」と聞こえたが、夕凪の声はお酒で酔っている事が分かる。
五郎は困惑したが「五郎です。今、話しても大丈夫?」と声を掛けてみた。
その声に夕凪は反応して「おい!五郎!どこに行っていた、私をさしおいて、どこかの女と遊びに行ってただろ!!」と電話越しに叫んだ。
(駄目だ・・・完全に酔っている・・・)と五郎は話す事を諦めた。「メグ、また明日にでも掛け直すよ」と五郎は電話を切ろうとした。
「待て!コラ!五郎!勝手に切るな!」と夕凪は電話を切らさないように必死で話しかけた。
結局、五郎は酔った夕凪の愚痴を2時間聞き続ける事になった。

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