この間の占い師の話で、俺は霧子を守る自信を失っていた。
霧子には「俺が守る」と言ってはいるが、
内心では、向井の想いの強さに俺は負けた気もしている。
夏場が近付き、亮の働く店の中もクーラーが良く効いている。
激しく流れる洗い場の水、そこで亮は客の飲み干したグラスを次々に洗っていた。
澄ました顔で仕事を続ける亮のポケットでは、携帯の着信ランプが光り続けていた。
亮が洗い物をしている時、店のマスターは慌しく客のご機嫌を取りに店のホールを出たり入ったりしている。
「亮! 洗い場が落ち着いたら、お前も店のホールに出てお客さんの相手をしろ!」
「はい・・・」
亮はバーテンが客のご機嫌を取りに店の中に出るのか? と疑問視していた。
ポケットの着信ランプは誰の連絡かは亮は気付いている。
占い師の所に行った後、亮は霧子を避けるようになっていた。
その後、毎日、霧子から電話が入っていた。
その電話に出るのも面倒に感じるようになってから、亮の携帯はサイレントモードで待ち受け状態にしている。
店のホールからマスターの大きな笑い声と一緒に自分を呼ぶ声が聞こえた。
「ワハハハハ!! おい! 亮! 亮!」
(本当に騒がしい店だな!!)
亮の頭の中では、この店に対して嫌悪感が強くなっていた。
今となっては霧子のマンションから近い店だと言うメリットがない為だ。
「はい! すぐ行きます!!」
傍に掛かっているタオルを取り、手を拭きながら亮は店のホールに出て行った。
女性客とお酒を飲みながら大騒ぎしているマスターは、亮が近付いているのに気付き振り向いた。
「亮! お前もお客さんに笑いを提供して楽しんで貰え!!」
霧子に対する想いが少しずつ小さくなりだし、その反面、亮の中では再びお酒に対する拘りも強くなっていた。
「マスター、少し宜しいですか?」
「何だ、この忙しい時に!」
亮に怒鳴るような声を出しているが、マスターの機嫌は良かった。
亮の態度を気にする事なく、終始笑顔で客を話している。
「ちょっと、お話が」
店のマスターは客の顔を見渡しながら笑っている。
「すいません、うちの若い奴が、どうやらヘマをやらかしかもしれませんので、少し席を空けさせて貰います」
店のマスターは、ソファーからふらつきながら立ち上がり、亮の後をついて行った。
亮は厨房に入って、更に奥の方へ向って行く。
「おい亮、この忙しい時に何の話なんだ」
マスターの前を歩く亮が突然、店のマスターの方に振り向いた。
亮の様子が突如変わり、怒りの表情が現れた。
マスターは「お前・・・、何や!!」と亮に威嚇するように声を発した。
亮の豹変した様子に、マスターは自然と足が後に下がった。
「おい、いい加減、真面目に酒を造れよ。お前のような奴でも、一応、看板背負って酒造りしてるんだろ。女の客を笑わせて喜ばせて、それがバーテンの仕事か? お前さ、何か勘違いしてないか? ここがホストクラブなら、俺もお前の言うように客を笑わすか、客を褒めちぎって喜ばしてやるよ。だけどよ、ここはバーなんだ。酒を味わって貰うのが本来の姿だろう? お前の店はさ単なるお喋りバーなんだよ!」
亮の言い分にマスターは黙って聞いていたが、酒が入ると暴れん坊に変わる体質から、今の亮の話を素直に聞き入れる事はなかった。
「おい! このクソガキ! 誰に向って口聞いてんだ!」
亮と店のマスターの睨み合いが始まった。
少し離れた場所で仕事をしていた見習いがマスターの怒鳴り声に気付いた。
「2人共、何やってるんすか!」
見習いはマスターを後から羽交い絞めにして、亮から引き離そうとした。
「将太さん、こんな所で働いていて、楽しいっすか?」
同じ場所で働く先輩に対して亮は真剣な質問をした。
マスターを抑えながら、将太は亮を見つめた。
「亮、お前のやっている事は、お前だけの意見なんだよ! ここはお前の店じゃないんだよ! マスターが幾ら悪い事しようが、不味い酒を造ろうが、見習いの俺達に文句を言われる筋合いはないんだよ! マスターの遣り方が気に入らないのだったら、喧嘩を売る前に、お前が店を辞めろ!」
将太の言葉に亮は少し冷静になった。
(そうだよな。文句あるなら辞めればいいんだよ。俺が熱くなった所で、別に店が変わる訳でもないしな・・・)
将太のマスターを抑える腕の力が緩んだ瞬間、店のマスターは抑えられた腕を外し、亮に殴り掛かった。
その振りかざされた拳が亮の頬に入り、亮は後に勢いよく倒れた。
「おい、このクソガキ! どれだけお前が生意気な事言ってもよ。看板背負う事も出来ないだろ。オラ、このクソガキ、掛かって来い!!」
ゆっくりと亮は立ち上がるが、店のマスターに対して怒りの感情は沸いてこなかった。
慌てて将太が店のマスターを抑えようとしたが、今度は抑えようとした将太をマスターが殴りつけた。
「マスター落ち着いてください! お願いします!」
殴られても将太は必死でマスターを抑えようと頑張っていた。
その様子を眺めていた亮は、前の店の事を思い出していた。
少し暗い雰囲気の店内に、眩い光を照らすスポットライト。
そこにグラスが吊り下げられ、時間の許される限り乾いた布でグラスを拭くマスター。
客が扉を開き入ってくると、その客の格好と表情から、どんな酒を欲するか想像する。
そして客の注文を聞いてお酒を造るが、マスターは客の様子に合わせて混ぜるお酒の分量を変えていた。
時にはレシピにないお酒を少し混ぜて、出きる限りお客の満足の行くお酒を作っていた。
亮が初めて前の店に行ったのは、居酒屋のアルバイトで知り合って付き合った憐とだ。
お酒の勉強をする亮の為に憐が予め探していた店だった。
「亮、ここの店のマスターが凄い有名らしいよ!」
「お前、ここって年配オヤジ達の店じゃないのか?」
「バカやな~、そんな癖のあるオヤジを喜ばすマスターが凄いんや~」
「誰が、この店をお前に勧めたんだ?」
憐はにっこりと笑って「私が飲み歩いて探したんや」と言った。
自分の彼女が自分の為に探してくれた店だと思うと、亮も迷わず店の扉を開けた。
店の中には亮の予想通り、40代以降の客が多い。
「いらっしゃいませ」と初老の男性の低い声で招かれた。
最近ではデジタルが主流の時代、今ではそんな言い方もされないだろう。
その時代と逆行して、アナログの音楽機材から流れる音楽。
年季の入った木目の造りに亮は魅了された。
薄暗い店の中、カウンターの椅子に座るとテーブルには、くっきりと木目が見える。
全てが拘りと言っても過言ではないだろう。
お酒の種類も豊富ながら、他の店では見られない珍しいお酒迄置いてある。
店のマスターが酒を造る時、眉間に皺が寄り、如何にも拘りオヤジに見えるが、その声が何より渋い。
「俺も・・・、こんな店が持ちたい・・・」
それが亮の口から出た言葉だった。
亮の言葉に憐は笑みを零した。
次の瞬間、憐は声を発した。
「マスター!」
注文かと思いバーテンの見習いの男性が憐の注文を受けようとした。
「あっ、違う違う、そこの髭の生えたカッコいい方!」
見習いの男性は、自分が呼ばれてないと分かると、静かな声でマスターを呼んだ。
「はい」
静かに響くマスターの声は、倍ほど年齢の離れている憐でも大人の男性の魅力を感じた。
「ここにさ、将来、腕の良いと思えるバーテンの見習いを連れてきたんだけど、ここで雇って貰う事って出来ないの?」
突然の事で店のマスターも驚いていた。
「おい! 憐、恥ずかしいじゃないか!」
憐の話に驚いた亮は、慌てて憐の口に手を当てて話続けるのを防いだ。
「ん~、だ・・・て、ん~」
亮の手で抑えられた憐は、亮の手を外そうもがいていた。
「すいません、この子、少し頭悪くて、どうか許してやって下さい」
2人の様子を見ていた見習いは笑い出したが、店のマスターは真剣な眼差しで2人を見た。
「君は、どこかでバーテンの見習いでもしてるのか?」
「え・・・」
店のマスターに話しかけられ憐を抑えていた手が口から離れた。
「いえ、居酒屋とホストクラブでしか働いた経験しかありません。恥ずかしい話、酒造りは家で独学で勉強しています」
亮の話にバーテンの見習いは苦笑いしているが、店のマスターは腕を組み真剣に考えていた。
「うちの店は悪いが、他の店と違い相当厳しいが、それでも、うちの店で働きたいか?」
「え・・・」
店のマスターの話に亮は驚いて、喜びに打ち震えている。
「はい!!」
2人の会話に亮を連れてきた憐ですら驚いている。
それが前の店で働くきっかけだった。
あの日、憐が俺の為に店を探してくれていなければ、俺はマスターと出会う事さえなかったんだ・・・。
マスターに不義理を働いた事も罪悪感を持たされるが、何より、俺の為に動いてくれた憐に申し訳ない気持ちが浮かんだ。
目の前で将太が必死で店のマスターを抑えようとしていた。
「おい! 亮! もう、お前は店から出てろ!!」
既に将太はマスターに殴られて、顔に痣が出来て頬は腫れあがっている。
その様子を見た亮は、それでもその場を離れない。
前の店に向井が週に2、3日来ていた頃、亮はマスターに毎日のように怒られていた。
亮も内心では我慢できずに怒りが抑えきれないと思わされる時期もあった。
「亮! お前の造るお酒は、ただシェイカーを振ってるだけだろ! こんなものお客さんに出すな! お前はグラスでも洗ってろ!!」
普段は物静かなマスターだが、1度怒り出すと鬼のような形相に変わる為、物凄い恐さを発揮する。
しかし亮も若い為、そのマスターに対して反抗の気持ちを持つ事もあった。
マスターに怒鳴られては、家で練習する。
そして次の日、もう1度同じ事に挑戦する。
そんな様子に常連客の向井は、亮に対して感心させられていた。
ある日、亮が大きな氷を割る為、アイスピックを氷に突き刺した瞬間、氷が2つに割れて床に落ちた。
「亮! 氷を割るのを失敗するとは、お前、何をしてる!!」
「すいません!!」
店のマスターに怒鳴られ、すぐに謝ったが、マスターの怒りは静まらない。
亮を手で押して店の奥に追いやり、亮の手を平手で叩いた。
「酒造りを目指している奴が、氷も割れんとは毎日店で何をしてる!! もう、お前みたいな奴は、この店で不要だ! 家に帰れ!!」
その様子をカウンターに座る向井が聞き耳を立てていた。
向井はマスターの様子を見て苦笑いした。
「マスター、それじゃ~、亮ちゃんが可哀想だよ~」
「お前は黙ってろ!!」
「あ~、マスター、そんな口を客に叩いていいの~」
「何だと!!」
「マスター落ち着いてくださいよ、亮ちゃん、いい腕してませんか?」
「どこがや!」
2人の会話は漫才のように繰り返され、気が付けば向井の思惑通り話が進んでいる。
「まったく、お前の口だけは良く回る口だ」
「いやいや~、マスターが見習いに厳しくし過ぎるんですよ。今時、暴力を振るうような、お店がありますか~♪」
「向井~、お前は、人の悪い所を突いておもしろいか!!」
「アハハ、ごめんマスター! でも、そのぐらいにしておかないと、幾ら亮ちゃんが根性あるからと言って辞めてしまうぞ!!」
「分かった、もうお前に免じて、今日は亮を許す!!」
亮の失敗も向井のおかげで、何度も許して貰っていた。
その時は亮の中でお節介な奴だと思う気持ちも強かったのだが、今、亮の中で向井の思い遣りに気付きだした。
(向井さん・・・、ごめん、俺のした事は・・・)
亮が昔の事を思い出している時、また店のマスターが拳を振り上げて亮を殴りつけた。
もう亮は無抵抗な状態だ。
亮の鼻にマスターの手の甲が当たり、その痛みに負けて亮が後に下がると、躓いて頭から後に倒れた。
俺・・・、こんな所で何をやってんだろう?
何の為に大阪に出てきたんだ?
ただ、いい女が欲しくて大阪に出てきたのか?
確かに大阪の夜の街は、誘惑が多い。
しかし、そんなもの年を食えば何も感じなくなる。
そう考えて、1つの事に拘りを持って行こうと考えたのがバーのマスターだったのじゃないのか?
何をしてるんだろ? 俺・・・。
目を覚ますと、そこに将太の顔が見えた。
「将太さん、俺、寝てたのですか? ここ、何処なんですか?」
「あ、俺の彼女の家だよ。お前、マスターに殴られて床に倒れただろ。脳震盪起こしてさ、そのままここに連れてきたんだ」
「そうだったんですか・・・」
亮は上半身を起こして、部屋の様子を見渡した。
「俺、居てて良かったんですか?」
「良くも悪くもないだろ。あれ以上、店で殴りあいでもされたら客が皆逃げるぞ。それに酒癖の悪いマスターは、お前も良く知っているだろ」
「そうだったんだ・・・。将太さん、すいませんでした・・・」
亮が素直に謝る姿勢に将太は驚いていた。
「亮、今日は泊まっていけ。明日の朝、帰ればいいさ」
将太の行為に甘えて、亮は将太の彼女の家に泊まった。
俺は・・・、向井さんが彼女をほったらかしにしたから、この人にはもったいないと思ったんだ。
1人にされる女の人の事を最初に考えただけなんだ。
綺麗だとか、お金を持っているだとかは、後付の理由なんだ・・・。
その日の夜、俺は1人で自分に言い訳をしていた。
次の日の朝、俺は覚悟を決めて、今の状況を全て片付ける事にした。
2008年7月12日土曜日
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