2008年4月25日金曜日

第8話:罠

朝から大きな粒の雨が、休む間もなく振っている。

夕方になっても雨が収まらない為、今日は店に来る客を寄せ付けない。

マスターと亮の2人は開店してから客が来るのを立って待っていた。

既に時刻は8時を超えようとしている。

普段なら、この時点で少なくても3人ぐらいは客が入っていが、

この雨の影響で今日は1人も客が来ない。

「今日の雨は酷いな。 1人も客が来ないぞ・・・、これはうちも潰れるぞ~」

と冗談混じりでマスターが険しい顔をした。

「傘を持っていたとしても、この雨では意味がないでしょ。

こんな日は誰も好んで地上を歩きません。 今日は地下道を通りますよ」

そう言いながら亮は苦笑した。

「じゃあ、今日は思い切って店を閉めるか!」マスターは苦笑いする。

「マスター、今日は帰ってもいいですよ」

お互い客の入ってくる店の扉に視線を向けるが、一向に客が入ってくる様子がないと思うと疲れる。

客の来る様子がない日に、2人で店に居ても仕方ないと思ったマスターは、

「お前は、働き者だな~・・・」と亮に言いながらベストを脱ぎ始めた。

そんなマスターの様子も気にせず、「少しでも、マスターの仕事を取り上げないと、

自分の店を持つ事なんて出来ませんからね」と強気な表情をした亮が言う。

「じゃあ、怠け者のワシは帰らせて貰うとして、12時に客が居ないなら、今日は閉店にしてくれ」

「分かりました」

外の雨の振る勢いは衰える事がなく、徐々に風が強くなり、雨の音が轟音と変わりつつある。


マスターが家に帰ってから1時間後、亮は霧子の携帯に電話をした。

「今日は、この雨で客の出入りもありません。

こんな日は売り上げに繋がらないので、好きなお酒でも造らせてもらいますよ」

店に客が訪れる事もないのであれば、亮は霧子の為にお酒を造ろうと考えた。

電話で話している間、亮は上機嫌で笑顔が耐えない。

その会話の最中、『カラン!』と鈴の音が鳴り店の扉が開いた。

突然の客の訪問に、「ごめんなさい、今、お客さんが来ましたので、

また後で電話させて貰います」と急いで霧子に言った。

電話を切ると亮は慌てて客の方を向き、いつもの対応をとる。

「いらっしゃいませ」


そこには雨で濡れた向井の姿があった。

「向井さん・・・」

普段明るい性格の向井が今日は暗い。

その様子に亮は、内心驚いている。

「亮ちゃん、マスターは?」と険しい表情で亮に尋ねた。

「今日はお客さんの入りが少ないので、自宅に帰りました」

「亮ちゃん、悪いけど、マスターに連絡が取れるかな?」

「連絡は取れると思いますが、突然、どうしたのですか?」

「ごめん、込み入った話で、今、説明している暇はないんだ」

向井の突然の訪問に亮は凄く気になる。

「分かりました、すぐに連絡を取ってみます」

店の電話からマスターの携帯に連絡を入れるが、移動中なのか携帯の電源が入っていない。

「駄目ですね、今、電波の入らない場所に居るみたいですよ」

「じゃあ、悪いけど、ここでマスターを待たせて貰えるかな?」

「何かお造りしましょうか?」亮は乾いたグラスを持ち出して言った。

「今は要らない。 ここで待たせて貰うよ」

向井の顔には焦りの表情がある。

亮も向井に何があったのか気にはなるが、それをここで話す程、向井と亮は親しい間柄でもない。

それから10分置きに亮はマスターの携帯に電話をした。


30分程経つと向井は冷静な気持ちを取り戻したのか、突然、口を開いた。

「せっかくマスターが居ない日だったのに、突然、店に来てごめんな」

「うちの大事な常連さんなのに何を気遣っているのですか? それより何かあったのですか?」

「実は来月の中旬に彼女にプロポーズをするつもりだったんだ」

「そうだったのですか!」亮はわざと大袈裟に驚く振りをした。

「それが、最近、彼女に連絡が取れなくなったんだよ・・・」

向井が目を閉じて言った。

向井の様子に合わせて、亮も真剣な表情に変わり「何か揉められたのですか?」と聞いた。

「いや・・・、大きな揉め事は何もないんだよ、ただ携帯に連絡が繋がらなくて・・・」

そう言って向井はカウンターに肘を付いて、下に俯き後頭部の髪の毛を両手で掴んだ。

その手には力が入り、今にも後頭部の毛が抜けそうだ。

少し間を置いて亮が口を開いた。

「向井さん、少しの間、留守番をお願いしていいですか?」

亮の言葉に向井は顔を上げて軽く頷いた。

亮は裏口に置いてある自分の鞄から携帯を取り出し、傘を持って裏口から外へ出て行った。


やがて表の扉が開き、雨が地面に強く叩きつけられる音と共に、亮が店の中に戻ってきた。

亮が向井の様子を見ると、まだ向井は下に俯きながら静かに座っている。

亮は扉の内側に掛かっている札を静かに反対に向けた。

店の外から見ると札は『CLOSED』と書いてあった。

(とりあえず、これで客は入ってくる事はないだろう)

店が閉まった事に気付かず、向井は顔を上げて亮の方を振り向いた。

「おかえり、客は来なかったよ」と言った。

「まあ、こんな酷い雨です。お客さんも地下街の店に行くでしょうね」

亮は苦笑しながら店の奥に入る。

「亮ちゃん、暇だったら、俺と一緒に飲んでくれないか?」

「いいですよ。 何を飲まれますか?」

「じゃあマティーニを・・・」

(向井さんがマティーニとは珍しいな、これは本当に2人の関係が危ういかもしれないな)

「分かりました。 すぐに用意します。」


亮は裏口の傍に置いてある予備の冷凍庫に近付いた。

そして冷凍庫の蓋を開けて、大き目の氷を何個か取り出した。

それを調理台の上に置き、向井の様子を見た。

向井は亮の様子も気にせず下に俯いている。

(よし、見られていない)

そう思った亮はポケットの中から薬を3錠取り出して、薬を氷と同じ場所に置いた。

亮は急いでアイスピックで氷と薬を砕き始めた。

『ゴッ! ゴッ! ゴッ! ゴッ!』

氷の下に置かれてある薬は粉上に変わり、それを手で氷と一緒にかき集めた。

残った氷は流しに手で落とし、粉状の薬は氷と一緒にシェイカーの中に入れた。

その様子に向井は一切気付いていない。

いつものようにシェイカーを上手く振ったつもりだが、亮は少しだけ焦っていた。

普段ならリズム良く振るシェイカーも、上手く振れず何度も手が止まった。

グラスにお酒を注ぐと僅かに沈殿する薬の粉が見えた。

(この程度なら大丈夫か?)

亮の中で不安が募る。

亮はお酒を向井に手渡し、向井の様子を見ていた。


向井は薬が入っている事を気付かずマティーニを飲み始めた。

辛い事情を抱えて酒を飲む向井は、目を瞑ったままマティーニを一気に飲み干す。

向井は亮にグラスを差し出し、亮にお替りを所望した。

次々とグラスを空けて、お酒を飲み続ける向井が静かに眠りに落ちた。

その様子を亮は確認して、眠る向井の傍に静かに近付く。

そして向井の鞄をゆっくりと持ち、そのまま店の奥に戻って行った。


向井の鞄を開けると、まず手帳が見えた。

その手帳を取り出して開くと、マスターの知人の店の名前が書かれてある。

その欄を見ると、マスター以下、向井と仲の良い常連客の名が連ねられていた。

その日の亮の予定は、1人で店を任される日。

(この日に霧子にプロポーズする気だったのか・・・)

亮はマスターの動きを見てから、自分の行動を決めようと思っていた。

しかし、向井が行動に移る以上、亮も先に手を打つ必要が迫られた。

(仕方ない、何があるのか分からないけど、多分、俺には都合の悪い日に思える。

それなら先に手を打つか)

亮は手帳を閉じて向井の鞄の中に手帳を戻した。

そして傍に置いてあった自分の携帯を取り、知人に電話を掛け始めた。

「俺だ。 亮だ。 悪いけど、お前の店の女の子を1人手配してくれないか?」

相手が話す間、亮は落ち着かず携帯を持つ手を何度も変える。

「上手くやってくれたら礼は弾む!」

その後、亮は相手の話を聞いて電話を切った。


『これで後に戻る事は出来んぞ。 生涯に1度だけ俺にもチャンスをくれ』

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