2008年4月12日土曜日

第6話:欲望

俺は大阪に出て、初めて目標を見失っている。

都会の街でお酒を造って、色んな人を喜ばしたり癒したりできる、

そんなバーテンダーを目指して来た筈なのだが・・・。


今は自分の欲望が大きくなって抑える事が出来なくなっている。

常連客の特定の女に気を取られるなんて、俺のモラルに反している。


それが霧子と言う1人の女性に気持ちが向いていた。

今は酒造りの勉強よりも、霧子の気持ちを俺の方に向けたい・・・。



店の中でシェイカーを振る亮。

最近、亮のバーテンダーの腕も上がり、マスターも酒造りを亮に任せる事が増えていた。

亮に店を任せる事が増えると、若い年齢層の客が店に訪れる。

それが店の売り上げにも繋がっていた。


マスターがグラスを拭きながら、小声で亮に話しかけた。

「ここ数ヶ月で、お前の酒の造り方は、凄く上手くなっているな」

亮は「ありがとうございます」と真剣な眼差しで言った。

「お前に、その気があれば、店を持たす事も考えようと思ってる」

亮は嬉しい気持ちを押し殺して、冷静に「ありがとうございます」と言った。

「あぁ、だが後3年は我慢して修行してもらうけどな」

「はい・・・」

3年と言う言葉に、亮は嬉しさが半減した。

それでも今迄の見習いは、マスターの元で最低5年は修行している。

それを考えると、頑張る気が失せる訳でもない。


扉が開き、外から1人の女性客が入ってきた。

「いらっしゃいませ」マスターが言った。

亮が扉の方を見ると、霧子の姿が目に入った。

「今日は向井とご一緒ではないのですか?」

マスターは霧子に聞いた。

「いえ、私1人です」

「じゃあ向井に連絡しましょうか?」

「いえ、今日は私1人で飲みに来ました」

返答する霧子の声は冷やかだ。


霧子はマスターが向井の肩を持つ人だと知っているので信用していない。

店に来てもマスターに目を合わさず、話す時は亮の方を見ていた。

亮はマスターに代わり霧子の対応を始めた。


「いつもと違うお酒を用意致しましょうか?」と亮が言った。

「えぇ、お願いできますか?」

霧子は亮の声に反応して、冷やかな声から普段の声に戻った。

その様子に驚いたのはマスターだ。

(何だ、ワシの出る幕ではない感じだ・・・)

マスターは亮の耳元に顔を寄せて「ここはお前に任せるから、後は頼むぞ」と言った。

「はい、任せて下さい」亮は静かな声で答えた。


亮は後の棚からリキュールを取り、リキュールベースのカクテル造りの準備に取り掛かった。

マスターが裏口から出て行くのを確認して、亮は霧子に話しかけた。

「あれから向井さんは来ていませんが、時々マスターに連絡は入っているようです」

亮はお酒の入ったグラスを霧子の前に差し出す。

霧子はグラスを口元へ持って行き、一口だけ口の中に含んでグラスを置いた。


亮は切ったレモンをタッパに直しながら、霧子に話しかけた。

「向井さんとは上手く行ってないのですか?」

その言葉に霧子は表情が暗くなった。

「最近、あの人に連絡しても繋がる事は少ないし、連絡をくれる事も減りました・・・」

「1度、名古屋に行って、向井さんの様子を見に行かれてはどうですか?

お忙しい方なので霧子さんが来るのを待っているかもしれませんよ」

亮は微笑みながら霧子に話した。

「あの・・・、非常に申し上げ難いのですが、よろしければ相談相手になって頂けませんか?」

亮は目を瞑りながらゆっくりと頷き、「いいですよ」と答えた。


時刻が0時を過ぎた頃、マスターが裏口から静かに入ってきた。

カウンターの方を見ると霧子が居る。

「亮、彼女の様子はどうだ?」小声で亮に言った。

亮はマスターの方に近付き苦笑した。

「また寝てますよ」

「そっか・・・、飲めないお酒でも彼氏に近付く為、飲むんだな・・・」

「マスター、休憩貰えますか? 彼女を車で送ります」

「あぁ、そうか。 そうしてくれ」


亮はベストを脱いで、カウンターに座る霧子の脇に腕を通した。

そして表の扉から霧子を抱えて行った。

「霧子さん、大丈夫ですか?」

歩きながら声を掛けるが、霧子からは何の反応もない。

その度に「仕方ないな」と苦笑いしながら、自分の車の停めた駐車場に向った。


駐車場に着き、車の助手席に霧子を乗せると霧子の鞄を開けた。

霧子の携帯が光っている。

(さすがに携帯を見るのは悪いな・・・)

そう思って携帯を鞄に直し助手席のドアを閉めた。

運転席に回り込み、亮は車のエンジンを掛けた。

(どうせ眠っているか・・・)

隣のシートで眠る霧子の足元に鞄を置いたが、今も携帯の着信ランプが付いている。

亮は鞄から携帯を取り出して、誰の電話か確認した。

携帯のサブディスプレイには、『まっさん』と表示されている。

(電話の主は向井さんか?)

亮は隣で眠る霧子を起こそうとしたが、起こすのをやめた。

(・・・何で俺が人の彼女の心配してるんだよ・・・)


亮の頭の中で欲望が渦巻き、徐々に大きくなっていた。

『1度ぐらい道を踏み外してでも・・・』

亮は欲望を抑えようとしたが、ふいに頭に浮かんだ言葉が一気に欲望を膨らませた。

『今なら奪えるぞ』

亮は手に持っている霧子の携帯を急いで操作しだした。

その操作が終わると霧子の携帯を鞄に戻している。

(これだけ綺麗な人だ。 他に言い寄ってくる男性は居るだろ。

別に俺でなくても、今のままだと他の男に取られるだけだ)



運転中、亮は何度も霧子の寝顔を見た。

(どうせ向井さんは、この女を必要としてないさ)

彼女に対して思い遣りが見えない向井より、

亮は自分の方が彼氏に向いているようにも思えるようになっていた。

亮の頭の中で色んな考えが交差していたが、

考えが纏まらない内に霧子の住むマンションに着く。


「霧子さん起きてください。 着きましたよ」

亮が霧子の体を揺らそうが、軽く頬を叩いても起きる様子はない。

亮は車から降りて、助手席の扉を開けた。

霧子を抱きかかえて、そのままマンションの入ろうとして歩き始めた。

しかし最初の自動扉を通ると次の自動扉は鍵が掛かっている。

(参ったな、また鞄の中を開けないと駄目なのか・・・)

亮は足を止めると、後から女性が1人入ってきて集合玄関機にカードをかざした。

目の前の自動扉が開き、後から来た女性はエントランスホールに入って行った。

亮も迷わず自動扉を通りエントランスホールに入った。


「広い・・・」

霧子の住むマンションのエントランスホールは、ホテルのロビーのように広い。

床は全て大理石で敷き詰められ、壁の至る所に絵が飾られ、所々に彫刻が配置されている。

(やはり金持ちは金持ち同士で付き合うのか・・・)

亮には霧子が全く別の世界の人に見える。

少しの間、立ち止まって亮は呆然としていたが壁際に向って歩いた。

天井を見ると監視カメラが至る所に配置されている。

壁際に近付くと霧子を降ろして、霧子の鞄を開けた。


亮は霧子の鞄の中に部屋の番号が分かる物がないか探し始めた。

財布の中を見ると、ゴールド会員のクレジットカードだけでも5枚持っている。

財布のカード入れに普通のカードより厚いカードが見えた。

亮はそれを抜き出した。

カードの隅に小さく部屋番号が書かれてある。

(あった、これだ)

亮は財布を鞄の中に直し、霧子を抱えて部屋向かった。

0 件のコメント: