2008年3月19日水曜日

第3話:マティーニ

常連の向井さんが転勤して2ヶ月経った頃、この店に霧子が現れた。 丁度、マスターが他の店に行っていた時の事だ。

店の扉が開き、1人の女性客が入ってきた。

「いらっしゃいませ」

亮は普段より少しだけ低い声を出して、落ち着いた様子で女性客を迎えた。 店に入ってきた霧子の姿が亮の視線に入り、亮は少し驚いた。

(向井さんの彼女じゃないのか? 向井さんが転勤したのに、何故、この店に?)

亮が驚いた様子も気にせず、霧子は静かにカウンター席の奥に移動する。 霧子が椅子に座ると、亮は「何を飲まれますか?」と注文を尋ねた。

「マティーニを・・・」静かな声で言う。

亮は酒を造り始めると霧子に話しかけた。

「マティーニって、昔、向井さんが好んで飲まれていた、お酒なんですよね?」

亮は霧子に笑顔を振りまく。 前回、霧子が店に来た時、向井が20代の前半の頃、 店でマティーニを好んで飲んでいた事をマスターから聞かされている。

少しでも場を和まそうとする亮の意図とは別に「あの人、ここには来ますか?」と霧子が話を切り替えた。

亮は返答に困ったが「いえ、来てませんよ」と事実を述べた。

「そう・・・、今度、いつ現れますか?」

向井の店に訪れる時なんて亮では検討もつかない。

「そうですね、来月辺りでも来るんじゃないですか?」と霧子が少しでも安心できる言葉を吐いてみた。

「そう・・・」亮の気遣いも虚しく霧子は落胆している。

亮はお酒をグラスに注いで、「向井さんが来られた時、連絡を差し上げましょうか?」とグラスを霧子に差し出す際言った。

霧子はグラスに気を取られ「ええ・・・」と戸惑いながら答えた。


夜の11時が過ぎた頃、マスターが店に戻ってきた。 裏口から入ってきたマスターは、カウンターに座る霧子の姿を見て驚いている。

「亮! 向井の彼女、来ていたのか!?」と小声で話しかける。

今更驚くマスターに呆れた顔を見せて、「もう3時間以上居ますよ」とグラスを拭きながら言った。

マスターは遠目に霧子の方を向き、「仕方ない向井に電話してやろう」とポケットから携帯を取り出す。

「電話する事なんてないですよ。向井さんが大阪に戻っていたら何も問題ないんでしょ!」1人で霧子を任された感が強い亮、苛立ちを隠せない。

「まあ、そうなんだけどな~」と言いながらマスターは取り出した携帯をポケットに戻した。

「それで、あの彼女は何を飲んでいるんだ?」静かな声で亮に尋ねた。

「前回と同じで、マティーニを飲んでいますよ」

「マティーニは、昔、向井が1番好きだったカクテルだ」

「その話は、この前教えて貰いました!」

「そうか・・・」

学生から社会人になり、働き始めると大きな壁にぶつかる。 学生の時に描いた理想。 大抵の人は現実を知り悩まされる。 学生時代、どれだけ机の上で勉強しても、それは机上の空論に過ぎない。 それを社会人になって実践しようとしても通用しないケースがある。 例え机の上で学んだ事が正しくても、現実社会では間違えているケースも稀にある。 そのギャップに勝てない場合、気持ちに逃げ出したくて酒を飲む事がある。
その時の酒が美味い不味いは別として、その人の記憶には酒の味が鮮明に残る。
年を重ねて行くと酒の好みも変わり、若い頃飲んだお酒から離れて行くものだ。
そして忘れた頃に若き日に飲んだお酒を飲むと、若い頃の苦い経験を懐かしむ。

向井にとってマティーニは、営業マンとして働き始めた頃の苦労の味。 辛い現実を知り、休みの日も休む事を忘れて仕事を頑張っていた。 その頃、この店に訪れて、連日、マティーニを飲んだ向井が居た。
その話をマスターが亮にしていたのだ。 恐らく向井も彼女となる霧子には、自分の昔話として、この店のマティーニの話をしていたのであろう。

時刻が1時半になり、店も閉店準備をする。 マスターがテーブル席に座る客に閉店時間を伝える為、ラストオーダーを取りに行った。 亮もカウンターに座る客に閉店時間を伝え、ラストオーダーを取る。

「申し訳ありません。2時にでこの店は閉店です。これでラストオーダーになりますが、何かご注文はありますか?」亮が霧子に話しかけると肘を付いて、頬に手の甲を当てて眠っていた。

(マティーニを4杯で眠るようなら、お酒は強くないか・・・)

亮はカウンターの奥からホール側に出てきて霧子の傍に近付いた。 空いたグラスや皿をお盆の上に乗せて、またカウンターの奥に戻る。

マスターがラストオーダーを取ってカウンターの奥に戻る時、霧子が寝ている事に気付く。

「タクシーを呼んで、自宅に送って貰うか」と苦笑いしながらマスターが言った。

「じゃあ俺がタクシー会社に電話します」

「あ~、その前に向井にも、この事を伝えてやろう」霧子が帰れるように手配を始めたマスターの様子を見て、亮は電話の傍にあるメモ帳を1枚破って自分の連絡先を書いた。 それを自分のポケットに入れた。

数分後、タクシーが店の近くの大きな通りに着いて、店の電話に連絡が入った。

「はい、では連れて行きますので、よろしくお願いします」とマスターが電話の応対をする。

「亮! 千日前沿いに大阪交通のタクシーが停まっているから、そこまで彼女を連れて行ってくれ」

「分かりました。じゃあ俺、少し出掛けます」

「頼む」

亮は霧子の傍に近付き体を揺らして起こそうとした。

「タクシーを呼びましたので自宅の方迄、送って貰いますよ。起きてください!」

「・・・・。」

寝ている霧子から何の反応もない。

「仕方ないな、よしっ!」と亮は霧子の脇の間に腕を入れて、霧子を持ち上げた。

脇に痛みが走り、「う~ん・・・」と唸るが霧子が起きる様子は一向にない。

霧子を右腕で支えながら左手で霧子の鞄を持ち、亮は店の外に出て行った。


商店街の裏通りから、千日前の大通りに向って歩くが、寝ている人を抱えて移動するのは辛い。 やっとの思いで大通りに出ると、大阪交通のタクシーは何台も停まっている。

(参ったな・・・、予約済みのタクシーが何台も停まっているぞ・・・)

亮は目の前に停まるタクシーから、次々とタクシーに尋ねて行く。

1台挟んで向こうから、「ワンショットさんの人?」と大きな声が聞こえた。
その声に亮が反応して、声を上げたタクシーの方を向く。

「ここ! ここ!」と大きな声の方角には、運転手が窓から手を出して亮に振っている。

予約したタクシーを見つけて、亮はタクシーに向って歩いた。

タクシーの後部座席のドアが開き、亮は霧子を後部座席に寝かせる。

「ハア・・・、ハア・・・、ハア・・・、すいません、この女性を送って貰えますか?」と亮が言った。

「どこまで送ればいいの?」眠る霧子の姿を見てタクシーの運転手は迷惑そうな様子で言った。

「参ったな、マスターに聞いてくるのを忘れたな・・・」

「お客さん、それじゃ~困るよ~」と怪訝そうな顔でタクシーの運転手が言う。

「ちょっと待ってくれ」亮は急いで霧子の鞄を開けて財布と手帳を探した。

手帳を見つけた時、亮はポケットからメモを取り出して、それを挟んでおいた。

亮はポケットから自分の携帯を取り出して、マスターに連絡を入れる。

「マスター、すいません、向井さんの彼女の住所は分かりますか?」マスターは既に向井に連絡を取って住所を確認していた。 その住所を亮に話している間、沈黙の間が流れる。

「はい、分かりました。では、そう運転手に伝えます」携帯電話を切り、「運転手さん、西長堀のグレインドハイツにお願いできますか?」と言った。

「はい・・・」運転手の返事は重い。

それは話している亮でも分かる。

「それじゃ、お願いします」そう言って亮は霧子を乗せたタクシーから離れた。


霧子の手帳には、亮のメモが挟まれている。

『ワンショットバーの見習い香川。  090-XXXX-XXXX、向井さんの事で何かあれば、いつでも連絡ください』

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