2008年3月15日土曜日

第2話:転勤

奥田 霧子、24歳。
この時、俺は霧子の名前も知らない。
名前を知るのは、まだこの先の事。
今は店に訪れた1人の客として霧子を迎えていた。

注文されたお酒を造る為、足元の冷凍庫から氷を取り出す。
それをアイスピックで叩き割っていたら、亮の目に霧子の姿が飛び込んだ。
霧子はテーブルに肘を付き、手の甲を鼻に軽く当てながら下に俯いていた。
(何か辛い事があって、この店に来たのか・・・?)
そんな考えが亮の頭に浮かぶ。
亮はシェイカーを振りだして、再度、霧子の方に視線を向けた。
前髪で表情を隠しているが、髪の間から僅かに見える瞳には、涙で瞳が光っているように見える。
(仕事で大きな失敗をしたのか? それとも失恋でもしたのか?)
シェイカーからグラスに酒を注ぎオリーブを添える。
そのままグラスを指で挟み、霧子の前に差し出した。
その時には霧子の瞳に涙など見当たらない。
(もう立ち直ったのか??? まさかな・・・)
亮は少しだけ微笑し、使った道具の後片付けをしだした。

ガタン!と音を立てて、裏口の扉からマスターが休憩を終えて入ってきた。
亮はその姿を見て肩の荷が降りた気がした。
静かな時間が流れ出し、10分程経つとマスターが亮の傍に寄ってきた。
「さっきは上手く造れたか?」と亮に囁いた。
「はい・・・、何とか・・・」
亮は自信のない表情をしながら答えた。
「そうか、じゃあワシは少し出かけてくるわ」
マスターは微笑みながら、亮を店に残す事を思い付いた。
「あ、はい・・・」と戸惑いを隠せず、自信のない返事をする。
夜の7時前後は、まだ店はそれ程忙しくない時間帯。
マスターは、裏口に向いながらベストを脱ぎ始めた。

店が暇な時は、マスターは他のバーに飲みに行く事がある。
今の亮同様、ここでバーテンの修行をして1人立ちしていった連中の様子を見に行く為だ。
そして店に居る見習いは、1人で客の対応をして成長させる。
そうやって、ここのマスターは何人ものバーテンを育てている。

店内の客は3人。
今はマスターの酒を目当てに訪れる常連客も居ない。
少し気が緩んだ時、亮は霧子の様子が気になりだした。
辺りを見渡し他の客の様子、店の外の様子、そして最後に霧子の姿を見た。
(それにしても綺麗な女性だ)
カウンターの端に座る、1人の女性客の美貌に亮は少し惹かれている。
亮が霧子の方を見ると、既にグラスは空になっている。
今は酒を堪能する事より、手元の携帯メールに集中していた。
携帯に集中している事で、亮が見ていても気付かれる様子はない。
そう思うと、亮は遠慮なく霧子の様子を見た。
色白で瞳の色は、純粋な黒ではなく、どこか茶系の色が混ざっている。
その上、鼻筋が良いので、顔立ちが日本人離れしている。
この2年、客商売を続けた亮にとって、女性に気を取られる事も少ない。
訪れる客を冷静に見る事があっても、その人に惹かれる事はあってならない。
そう思うと亮は、傍にあった布巾を取って、濡れたグラスを拭き出した。

一時のバーテン気分を味わおうとすると・・・。
「すいません、もう1杯頂けますか?」と霧子が酒の注文をしてきた。
「あ・・・、はい」
気になっていた相手から声が掛かり、亮は返事に戸惑った。
(参ったな・・・、俺のペースが乱れてる・・・)
亮は邪念を振り払い無心でお酒造りに集中した。
心乱れる事なく酒を造り終えると、お酒を霧子に差し出した。
それに霧子は「ありがとう」と静かに言った。

時間は刻々と流れ11時が過ぎる頃、霧子以外の客は誰も居なくなっていた。
まだマスターは他の店に行ったきり帰ってこない。
他の常連客が訪れない事から、亮は常連客が外でマスターと合流していると検討はついている。
既に霧子もマティーニを5杯飲み干している。
店内には2人、今の状況を考えるとバーテンが客に話をする事も許される。
亮は思い切って霧子に話す事にした。
「このお店は初めてですか?」
「・・・いえ」と霧子は冷たく答える。
声のトーンから会話を望む様子はなさそうだった。
(誰かと話したい気持ちもないか・・・)
そう思うと霧子の方に軽く微笑んでグラスの片付けを始めた。

トゥルルル! トゥルルル! 静寂の間を割って入るように電話が鳴った。
「はい、ワンショットバー」亮が電話に出た。
電話の向こうには、騒がしい状況の中、大きな声を発するマスターが居た。
「亮! 今から向井と常連さん3人連れて帰るから、フルーツボックスを4人前程用意してくれ」
「はい、分かりました」
亮は電話を切り、マスターに頼まれたフルーツボックスの準備に取り掛かった。
向井は、この店の常連客の1人。
亮はマスターの電話の様子から、10分も経たない内に戻ってくると判断した。
頼まれたフルーツボックスを10分程度で用意できない為、霧子の様子を気になっている場合ではない。
急いで冷蔵庫の中から、パイナップルやメロンを取り出し、次々と包丁を入れて行った。
しかし今度は「どなたかお客さんが来られるのですか?」と霧子の方から会話を求めた。
「はい、今から常連客が4人、店に来ます」と亮はフルーツを切りながら答えた。
亮の言葉で霧子は満足したのか、それ以上会話は膨らまなかった。

全てのフルーツを切り終えた亮は大きな皿に切ったフルーツを盛り付ける。
その最中、マスターが常連客を連れて帰ってきた。

「亮ちゃ~ん、マスターを連れて帰ってきたぞ~」既に酔っている常連客の1人が亮に向って言った。
急ぎ盛り付けを続ける亮は、手元を見ながら「皆さん、どうしたんですか? 今日は来ないのかと思ってましたよ」と言った。
「亮、来週から向井が名古屋に転勤するぞ。うちの店でも祝ってやろう」と常連客の後方に居るマスターが言った。
その瞬間、霧子がマスターの居る方向へ視線が向けた。
「あれ? 霧子、お前、店に来ていたのか?」
肩幅の広いスーツの上着を着て、少し小太りの向井が霧子の様子を見て驚いた。
向井の声に亮の耳も傾いていた。
(この人、向井さんのお連れか?)
「お~、何だ。 このお客さんは、お前の連れの女性だったのか?」とマスターが言った。
「あ・・・、はい。 私の彼女です・・・」
この場に霧子が居て困ったのか、向井の表情は硬まった。

向井 雅之、39歳。
温和な雰囲気ながら仕事では営業成績トップで年収も1千万を超えている。
今度の転勤で本社の営業部に異動する。
「そうだったのか、どうりで見覚えのある女性だと思ってたぞ・・・」
今更ながらとマスターも慌てて言い訳をしだした。
「あ~、マスター。 霧子ちゃんを亮ちゃんのお酒造りの実験台にしただろ~」
別の常連客が笑いながらマスターに言った。
「馬鹿、今から祝ってやるから、文句を言うな!」マスターは少し表情を硬くした。
普段、表情の険しいマスターでも、この常連客を迎える時は素の顔に戻る。
その時程、亮も気の休まる時はない。

そこから2時間、マスターが向井の送別会を仕切る。
他の客が居ない分、店の中は常連客で騒がしくなった。
「それで今度の転勤で、奥田(霧子)さんと結婚するのか?」と常連客の1人が向井に質問する。
その質問に向井は困った顔をしだした。
「あ、いや・・・、それはまだ先の話だ」
「いいのか~、こんな綺麗な彼女を置いて、向こうで安心できるのか~」と笑いながら常連客が言う。
「まあ、向こうの仕事が落ち着いたら、結婚するんだろう?」マスターは向井を立てようとした。
そんな笑い話の中、霧子が一言漏らした。
「いえ、この人は私との結婚なんて、これぽっちも考えていません」
場の雰囲気に寒い空気が流れ、一瞬で笑い声が途絶えた。

その後もマスターを含め常連客が盛り上がる中、ふと切り出される霧子の一言で場が静かになる事があった。
その間、亮は食べ物を用意をしたり、お酒造りを担当した。
「じゃあ今日は、この辺にして、次は向井が大阪に遊びに来た時にでも集まろう!」と常連客の1人が場を締め括りに入った。
「この人は、2度と大阪に戻ってきませんよ」
最後の最後迄、盛り上がる場を霧子が潰しに掛かる。
「そうだな・・・、向井も忙しいから、簡単に大阪に戻ってくるなんて出来ないよな・・・」
何とかマスターが向井のフォローに入るが、その言葉は霧子も聞く態度を示さない。
皆、霧子の一言で次に出す言葉に詰っていた。
「まあまあ、今度は2人の結婚式の2次会で、この店を使ってくれ」マスターが笑顔で言った。
「さすがマスター! 商売上手!!」とマスターの一言に常連客の1人が付け加えた。
それでも祝いの場に相応しくない、場の静けさが漂った。
向井の転勤は霧子にとって喜ばしい事でないと誰もが分かる。

客が全員店から出て行った後、マスターと亮は片付けを始めた。
「しかし、向井にあんな綺麗な彼女が居たんだな。でもあの嫉妬心は後々大変そうだな~」笑いながらマスターが言った。
「向井さんが忙しい人だから、幾ら綺麗な人でも溜まった物じゃありませんよ」
亮は裏口にあるダンボールを壊したり、椅子をカウンターに上げている。
「まあ、あれだけ綺麗な彼女が居るんだから、向井も心配でちょくちょく帰ってくるだろ」
「そうかもしれませんね」亮は苦笑した。

(あの2人は別れるさ)

向井の心配をするマスターと違い、亮は向井と霧子の仲は終わると判断した。

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