2008年3月2日日曜日

第1話:憧れ

俺は香川 亮、25歳。
現在、アパートを借りて、妻と2歳の娘と3人で暮らしている。
仕事は建設現場の作業。
朝から晩まで、体を動かしっぱなしで、仕事が終わる頃には、くたくたになる。
だが、この仕事は働いている実感が持てる。
そんな俺も、人の想いを知る事がなければ、今のように真面目な生き方に目覚める事はなかった。

5年前、あの女性と出会う事がなければ・・・。

徳島市内で生まれ育った俺は、10代前半の頃から都会の街に憧れた。
高校時代、アルバイトで稼いだ金の1/4は、大阪に出る為のお金として貯めていた。
そして高校を卒業した日、俺は迷わず生まれ育った徳島を離れている。

憧れの都会の街、大阪に出た俺が最初に働いた場所は居酒屋。
バーテンに憧れていた事もあり、まず酒を扱う仕事を望んだ。
しかし最初はホール係だった為、酒を造る事より注文や皿洗いばかりの毎日だ。
それでも最初の内は何でも新鮮味が感じられ楽しい。
それが半年続くと飽きてきた。
そんな飽きた毎日から離れるのを願ってか、俺は厨房の連中と喧嘩して、それ以来顔を出していない。

次の仕事は、俺より先に居酒屋を辞めた奴に誘われた、ホストまがいのアルバイト。
酒を作る点では、バーテンのような事もするが、本格的な勉強もせずに酒を造っている。
いい男を探して来る女性客は、そんな酒を喜んで飲む。
それも半年後には、仕事に飽きて辞めてしまっている。
辞めたと言うより、また喧嘩してしまったのだが・・・。

酒の造り方に少しでも拘りを持つ俺は、他の店員の酒の造り方が気に入らない。
隣で酒を造る店員を見ると、適当な分量で女性客に微笑みながら酒を造っている。
自分の手元も見ずに酒を造る事自体、酒造りを舐めていると思った。
今、考えれば、俺の方が場違いの場所で働いたと思うが・・・。
当時の俺は、それに気付けない。
だから、そいつを注意した。
その注意した奴が、2ヶ月後には店の№1になり、後々痛い目に遭わされている。

そして次は念願のバーに就職した。これが最後の酒造りの修行だとさえ思っていた。
店のマスターは愛想は悪いが、凄く拘りがあった。
マスターが酒を造っている時は、凄く酒造りに集中している。
酒が出来て客のグラスに注がれた瞬間は、店内のライトにグラスが反射して凄く輝く。
俺も何度かマスターに酒を造って貰っているが、とても俺なんかが評価できるレベルではない。
初めてマスターの酒を飲む客は、酒を口に含んだ瞬間、目付きが変わる。
そして、その酒を飲み干して、同じ酒を注文する事が多い。

店に来る客も癖のある客ばかりだ。
仕事終わりに来るサラリーマンでも、その雰囲気は癖の多いオヤジ連中が多い。
そんな店の雰囲気だから、本当の酒好きが訪れやすい。
それが俺にとって遣り甲斐を感じさせた。

それでも働き始めて1年は、グラスを洗わされる毎日が続く。
もちろん楽しい訳でもないが、マスターの酒の造る時は、手を止めて俺も見入ってしまっている。
いつか俺もマスターのように人を魅了する酒を造りたい。
そう願って、日々を過ごしている。

ある日、店に1人の綺麗な女性が訪れた。
1番奥の席に座り、手帳を開き、鞄からボールペンを取り出す。
丁度、マスターが休憩している為、俺が女性に注文を尋ねる。

「何か、お造りしましょうか?」

その台詞は、普段、マスターが最初に使う台詞だ。

「じゃあ、マティーニをお願い」

女性はボールペンを走らせながら、手帳から視線を外さない。
ここに来る客の中には、仕事の傍ら飲む人も結構居る。

そう、これが俺と霧子の初めての会話だ。

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